連載
#7 相席なま田原
僧侶が励む〝ウケ狙い〟ツイート 「お寺は面倒くさい」を壊したい
今こそ「お寺への入り口」を増やすとき
ツイッター上で仏教の魅力を発信し、3万人近いフォロワーを抱える僧侶・松崎智海(ちかい)さん(45)。浄土真宗本願寺派・永明寺(北九州市)の「バズ住職」として、過去に何度もメディアに取り上げられてきました。ところが昨年11月、ジャーナリスト・田原総一朗さんとの対談企画「相席なま田原」に臨んだ際、大きな壁にぶち当たります。「僧侶として、不甲斐(ふがい)なし」。深い後悔の理由とは? 「松崎さん自身がネット上に露出し、そのことが受け入れられている理由」について、ご本人につづってもらいました。
#相席なま田原、浄土真宗本願寺派僧侶・松崎智海さんとの対談盛り上がっています!仏教の意味、伝え方など、熱いトークが繰り広げられています…!https://t.co/v7ToOwwXT4
— withnews (@withnewsjp) November 30, 2020
「松崎さんは、なぜ人々に受けるのか?」。田原さんが対談中、私に何度もそう問うた。こんなことは考えたこともなかった。自分でもよくわからない。なので、質問を受けたときは「知らんがな」と心でつぶやいてしまった。
もちろん、口でもうまく答えられなかったが、よくよく考えてみると、これはとても大切な視点だと後でわかった。私自身が人気者であるという自覚は全くないが、多くの人が注目してくれていることは、3万近いツイッターアカウントのフォロワー数に表れている。
その原因が解明できれば、仏教全体に当てはめることによって、宗教離れの解決の糸口になるのではないか。これこそが田原さんの考えなのだ……と、冷静になって気が付いた。
やはり田原さんは、仏教を、浄土真宗を心配してくれているのだと思う。
私がSNSやメディアに露出しているのは、ひとえに仏教の認知度を上げるためだ。
お坊さんは、「世間は自分たちのことを当然知っている」と思いこんでしまうことがある。お寺が仏教の施設で、仏教はお釈迦(しゃか)様が開いて、色々な宗派があって、自分のお寺は○○宗で、開祖は△△で……。そのように、社会科の教科書に出てくる程度の知識は、みんな持っているだろうと思っている。
私はかつて、高校教員として宗教について教えていた。その経験からすると、かなりの人たちが神社とお寺の区別はついていないし、教科書の知識としては知っていても、それが現実のお寺とは結び付いていない。浄土真宗という宗派の存在を理解していても、どこに浄土真宗のお寺があるかは知らないのである。
一般社会において、仏教のことについては、こちらが思っている以上に知られていない。だから、仏教というものを知ってもらうため、発信を続けるようにしている。そして、メディアの取材にも、できるだけ協力するようにしている。
そういえば、テレビ関係の人が言っていたのだが、お寺の取材は「面倒くさい」らしい。
実は世間の人々は、仏教のことについて知らないことが多い分、その知られざる実態について興味があるという。仏教というものが何なのか、情報番組のニーズとしては一定数あるようだ。なので、テレビ側としてお寺は取材したい対象ではあるのだが、取材のハードルが高いらしい。
電話で問い合わせをしただけで怒鳴られたり、事前の打ち合わせで段取りを決めていても、当日取材に入ったら、「これは映してはいけない」「あれは放送してはいけない」と注文が入ったりする。
もちろん宗教施設であるから、教義的にNGな点もあるだろう。でもそれとは別に、妙に高圧的であったり、手順を踏むよう求めてきたり、非協力的であったり。とにかく、面倒くさいの一言に尽きるらしい。
このことは、一般的な仏教への認識にも、同様に表れている。お寺との付き合いは面倒くさいのである。
その世界独特のルールであるにも関わらず、知らなかったら知らない方が悪い、みたいな空気を出してくる。多くの人々が感じる、お寺への敷居の高さは、こういったところから出てくるのではないだろうか。
「自分の子どもたちに迷惑をかけたくない」と言って、お寺から離れていく人たちがいる。そう言っている人の多くは、大抵普段からお寺との付き合いをしていない。
なぜかというと、面倒くさいから。そういう思いを子どもにさせたくないし、自分もしてこなかったから、終活という名目でお寺から離れたいと考える。敷居が高いというと奥ゆかしい感じがするが、率直に言うと面倒なだけである。
そして、その原因は、面倒くさいお寺にある。こんなことを言うと、「お寺との付き合いを面倒だと思うとはけしからん」と言うお坊さんもいるが、そういうところがまた面倒くさいのである。
だから私は、できるだけ面倒くさいと思われないよう、迎合している。迎合は決して悪いことではないと思う。もちろん、教義的な側面を曲げて、世間に合わせるなんてことはしない。しかし、相手が求めやすい環境を整えることは必要だと考える。
一方で、そういう面倒くさい、非効率的な手順が好きで、それを求めてくる人もいる。回りくどい作法や手順を踏むことで生まれる特別感に満足したい人たちだ。そういう重厚な付き合いを求める人には、そういったものも用意する。
一方に偏るのではなく、柔軟に、できるだけお寺への入り口を増やす。ライトにお寺と付き合いたい人にも、ヘビーにお寺と付き合いたい人にも対応できるよう努めている。
SNSも、数ある入り口の一つである。だから、よくSNSを通じて私に会った人に言われるのが「実物はあんまり面白くないですね」という感想だ。逆に昔からの知り合いが私のSNSを見ると「こんなことするやつだったっけ?」と聞かれる。
なぜこんなことが起こるかというと、入り口ごとに見せている顔が違うからだ。そうやって、色んな顔を持つことが、私なりのお寺を営む上での努力なのである。
もし、私の言動が誰かの参考になるとしたら、その点だと思う。
お寺は世間との接点を増やし、アクセスしやすい環境を整えてこなかった。一つの入り口から、段々と核心に近づき、ランクアップしていくような手順を踏ませる。そのことにより、自分たちの信仰を崇高なるものと感じさせるようにしてきた。入り口は広げても、その入り口を増やすということはしてこなかったのである。
しかし価値観が多様化し、テクノロジーによって様々なアクセスの仕方が可能になった現代は、この入り口を増やす大きな機会にあふれている。よりダイレクトに、より気軽に宗教にアクセスする方法を提供するのが、伝道を主体とする宗教者の役割だと思う。
だから「松崎がなぜ受けるのか?」の答えは「受けを狙っているから」だ。受けを狙うことをしてこなかったお寺という世界で、受けを狙ったことが珍しいから、たまたま受けているだけだと思う。
そして受けを狙う理由は、一つでもお寺の入り口を増やすためである。
私のお寺づくりのモットーは「縁が生まれてみんながワクワクする開かれたお寺」だ。これは、SNSのプロフィールにも載せている言葉だ。
「縁が生まれる」とは、つながりを確認できる場であるということ。「ワクワクする」とは、未来を語る場であるということ。そして「開かれた」とはアクセスがしやすい場であるということだ。この三つを備えたお寺にしていきたいと思っている。
今回の田原さんとの対談で受けた質問への答えは、まさにここにある。つながりを与え、死後も含む未来を意識し、誰もが入りやすい入り口がたくさんある。そんなお寺を目指している。対談時はうまく答えられなかったが、改めて自分の考えをまとめる、いい機会になった。
田原さんの口調は厳しかったが、その言葉の端々に、仏教に寄せる期待を感じた。国政をも左右してきたインテリの口から、その言葉を聞けたことは、今後の大きな励みだ。
正直、世間の人々は、仏教に1ミリも期待していないと感じることがある。しかしそれ以上に、宗教者の方が仏教に期待していないのではないか、と思うときもある。自分たちの信仰に対する自信をすっかり失い、「こんな教えには誰も耳を貸さないのではないか」と、一般社会以上に冷めた目で仏教を見ている僧侶もいる。
しかし、仏教には多くの人々の人生を支え、突き動かすだけの熱量があることを、86歳の田原さんは教えてくれた。「君たちを信じるから胸を張って生きろ」と、背中を押された気がする。心残りはたくさんあるが、私にとっては有意義な対談となった。
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#相席なま田原、浄土真宗本願寺派僧侶・松崎智海さんとの対談盛り上がっています!仏教の意味、伝え方など、熱いトークが繰り広げられています…!https://t.co/v7ToOwwXT4
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