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連載

#5 相席なま田原

日本の仏教、コロナで求められない理由 SNSで発信する僧侶の答え

お寺が「もらいすぎる」という大問題

ジャーナリストの田原総一朗さん(左)との対談に臨んだ、僧侶の松崎智海さん。実際のやり取りの中から生まれた「後悔」について、振り返ってもらいました
ジャーナリストの田原総一朗さん(左)との対談に臨んだ、僧侶の松崎智海さん。実際のやり取りの中から生まれた「後悔」について、振り返ってもらいました

目次

ツイッター上で仏教の魅力を発信し、3万人近いフォロワーを抱える僧侶・松崎智海さん(45)。浄土真宗本願寺派・永明寺(北九州市)の「バズ住職」として、過去に何度もメディアに取り上げられてきました。ところが昨年11月、ジャーナリスト・田原総一朗さんとの対談企画「相席なま田原」に臨んだことで、大きな壁にぶち当たります。「僧侶として、不甲斐(ふがい)なし」。深い後悔の理由とは? 「新型コロナウイルスの流行下で、誰もが不安なのに、仏教が支持を得られない理由」について、松崎さんにつづってもらいました。

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キツく、ズルかった手練れの質問

先日、田原総一朗さんとの対談の機会をいただくことになった。

田舎の一僧侶に、国政をも左右する大物ジャーナリストと、直接意見を交換できる機会が与えられる。それはもう、あり得ないことだ。大学生のとき、田原さんが出演する深夜番組「朝まで生テレビ」を見て、「俺にも意見させろ!」と思っていた若造に、本当に意見する機会が回ってきたのだから。

しかし、対談を終えた感想は「僧侶として不甲斐なし 穴があったら入りたい」だった。

百戦錬磨の手練れの質問はキツい。そしてズルい。質問を8割くらいで止め「それについてはどうですか?」と力強く投げかけ、質問の残りの2割は相手に考えさせる。撮影中という沈黙の許されないプレッシャーの中で、質問の真意を考え、さらに自分の考えもまとめなければならない。

必死で考えていると、事前に用意した答えは無意味になる。本当に普段から身についた考えがそこから出てくる。きっと相手の本音を引き出すための、磨き抜かれた技術なのだと思う。そして、まんまと私はその策にハマってしまった。

田原さんは、常に具体的な答えを求めた。新型コロナウイルスの流行下で、仏教は自分たちの生活にどのような恩恵を与えてくれるのか、私たちをどのように救おうとしているのかについて問われた。しかし、私の言葉は観念的で具体性に欠け、終始パクパクと上滑りした答えばかりを繰り返すことになった。

それは、「自分が自分の考えはこれだ」と思っていたものが、実は真に身についたものではなかったことをあらわす。ショックだったし、これからたくさんの答えを出さなければならない立場としては、まさに不甲斐ない姿だった。

しかし、この苦い経験が自分の考えを見つめる機会になったのも事実だ。今回は、そのことをまとめてみようと思う。私が田原さんから受けた質問の中で、大きく考えさせられた(=うまく答えられなかった)事柄について考えていきたい。

なぜ不安な時代に仏教が求められない?

田原さんに強く問われたのは、「新型コロナウイルスの流行下で人々が不安になっているのに、なぜ宗教が求められないのか?」ということだ。

近代以降の日本において、宗教が大きく注目される、いわゆる「宗教ブーム」は3回起こったと言われている。1回目は幕末から明治維新にかけて、2回目は戦後まもなく、そして3回目は経済が行き詰まりをみせた1970年頃からで、オウム真理教などが注目されたのは第3次宗教ブームである。

この「宗教ブーム」という言葉自体の議論はさておき、大きな時代の変化を迎えたときと、宗教の勃興は関連性があるというのは、よく言われる。

人間は変化に不安を覚える生き物だ。時代が動き、価値観が大きく変化するとき、人々は大きな不安の中に投げ出され、その不安を解決する手段として宗教を求める。日本の宗教ブームも、歴史の大きな変化の時期と重なる。人々の不安が高まる時、宗教が大きく求められるのだ。田原さんの質問は、それを踏まえての質問であろう。

ウイルスが猛威を振るう中、いたるところで不安の声があふれている。しかし、多くの人が宗教に傾倒し始めた、とは全然聞かない。「この状況について、お前はどう考えているのか」ということだ。

田原さんの質問を受けたとき、頭が止まった。実際、自分も疑問に思っていたことだからだ。いや、自分の身近でそんなことがないだけであって、日本中を眺めたら、頼られている宗教者もいるのかもしれない。しかし、それが一つの波になっているという実感はなかった。

では、なぜか。

止まった頭では答えられなかったが、対談後に考えてみて、二つの答えというか“言い訳”を思いついた。一つ目は「物理的に無理」というもの、二つ目は「日本の仏教の体質」ということだ。

「集まれない」という空前絶後の状況

一つ目の点を巡って言いたいのは、「大勢で集まれない」という現実の重さについてだ。これは多くの宗教が、歴史上初めて経験することだと思う。

既存の伝統仏教は、その長い歴史の中で、何度も疫病の時代を乗り越えてきた。乗り越えたというか、疫病が終わっても消滅することなく存続できた、と表現した方がいいかもしれない。しかし、かつて人々は、疫病の原因がウイルスという目には見えない存在で、それは人から人へと感染するという事実を知らなかった。

100年前にスペイン風邪が大流行した際に、どれだけの人が、その原因をウイルスと知っていただろうか。この辺のことは全くの素人だが、調べた限りでは、菌より小さい“何か”があることは、当時も認識されていたらしい。しかし、その“何か”が可視化されるには、電子顕微鏡の普及を待たなければならなかった。

一方、現代では連日のように、トゲトゲのついた球体型というウイルスの姿が、テレビに映し出されている。そして、それらが持つ特徴を嫌というほど見聞きし、有効な薬品ができるまでは物理的な距離、いわゆるソーシャルディスタンスを取ることが有力な対抗手段であると知らされてきた。

ソーシャルディスタンスは、直訳するならば「社会的な距離」であり、宗教はその距離を縮めることで伝わってきた側面がある。「集まってはダメ」という認識の広がりは、外圧的によるものを除くと、宗教にとって初めての経験だったといえる。

その証拠に、ウイルスがはびこる中で、様々な工夫を施して法座(お寺で行われる法要などをはじめとした仏教儀礼)に取り組む住職たちは、「長年続いてきた法座を、疫病を理由に途切れさせるわけにはいかない」と口々に言う。

これは裏を返せば、「宗教者は『集まれない』という経験をしたことがない」との事実を示している。

仏教の「もらいぐせ」という体質

二つ目の「日本の仏教の体質」というのは、何も今に始まったことではない。「もらいぐせ」のことである。少し言葉が悪いのは、現代のお寺への揶揄(やゆ)も含めているからだ。

とにかく日本のお寺は、金銭や日々の糧を、第三者からもらうことに慣れすぎている。というよりも、もらうことを前提に社会活動を行っている。しかし、これは仏教の教義的な特徴にも由来しており、全てを否定するつもりはない。

仏教教団というのは、そもそも社会に依存して成り立つものである。人里離れた場所で修行し、生命維持のための営みは、人々にとって迷惑にならないよう、最低限の節度を守りながら行った。また原始仏教において、僧侶は一切の生産的活動を戒律によって禁じられてきた。この意味で僧侶とは、「究極の社会不適合者」だ。

そんなルーツを持つ宗教だから、ものをもらうこと自体は否定できない。しかし、日本の仏教は、そのもらい方が極端に一方的なように思える。

多くの僧侶にとって、一番よく受ける質問が「お布施の金額」だ。これは世間一般に、「寺に行くと取られる」と認識されていることを示していると思う。だから、「いくら出せばいいですか」とばかり聞かれるのである。

海外のお寺は「与えまくっている」

一方で海外の場合はどうかというと、「何か困ったときは、お寺に行けばなんとかなるかもしれない」との意識が、社会全体で共有されているようだ。

インドのお寺には、旅人のために宿が併設されている場合がある。現地の僧侶いわく、わずかのお金を払うと、一晩の寝床と、質素な朝食にありつくことができるそうだ。

2016年3月、お釈迦(しゃか)様の旧跡を訪ねようと、実際にインドまで足を伸ばした。お寺では、近所の子どもたちを集め、学校のように授業を行っていた。授業料などは、ほぼ無料らしい。

同国の貧しい地域においては、子どもを労働力とみなし、学校に通わせない親も少なくない。だから仏教の教えを学ばせ、子どもたちを勤労から引き離すことで、教育の機会を提供しているのだ。いわば、寺院が地域に「与える」存在になっているのである。

インド訪問に同行してくれたムスリム(イスラム教徒)のガイドは、寺院に集まった子どもたちを見て「お金で釣って教えを広めるのはひきょうだ」と言っていた。しかしイスラム教の戒律でも、「ザカート」と呼ばれる、困窮者を救済するための義務的な喜捨が定められている。宗教が弱者を救うシステムがあるのだ。だから信者には、自らの施しが、イスラム社会のために使われるという自覚がある。

このような事例を踏まえると、日本の寺院は「与える」という点では弱い。こう言うと「我々は法を与えているじゃないか」と主張する僧侶が必ずいる。「法」とは仏教的な教えのことで、布施をいただく代わりに教えを与えている、ということである。

これを、財産を与える布施を意味する「財施」に対し、「法施」という。「だから私たちは、十分に与える側の存在なのだ」と言いたいのである。

「伝えたい」という気持ちに突き動かされた

だが、しかし、その理屈は今、もはや通用しない。なぜなら、たくさんの人が集う場で、法を届けることができないからである。これまでの建前がくずれたのだ。

そこで飛びついたのが、インターネットである。

今、多くの僧侶たちが、オンラインで何とか教えを伝えようとしている。私を含め、それらの試みがうまくいっているとは言いがたい部分もある。しかし、一生懸命頑張っている僧侶たちは、「何とかして教えを伝えよう」という責任感からもがいているのである。

もらうだけの立場ではなく、きちんと与えることのできる存在でありたい。そんな願いが、若者を中心として、仏教界でムーブメントを起こしつつある。

私は、そのように動いている僧侶たちが、日本仏教の体質を変えるきっかけをつくるのではないか、と思っている。それはオンラインにとどまらず、「何としてでも与える」との思いを持つ僧侶たちが、たくさん誕生しているということでもある。

オンラインで情報発信をすると、すぐにテレビなどのマスコミから、取材を申し込まれる。それは、オンラインで発信しているお寺が圧倒的に少なく、珍しいからだ。この状況を、冷ややかに見ている僧侶が多いのも知っている。

そんな保守的な空気の中にあって、このウイルスの流行には、日本仏教が変化するきっかけになりうるほどのインパクトがある。

従来の手法が通じなくなった今、改めて人々は何を求めているのかを考え、それにどのように応えていくのかを模索していかなければならなくなった。お寺を取り巻く窮地は、現状維持を続けてきた日本仏教が、変わる口火となるのかもしれない。

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松崎智海(まつざき・ちかい)
1975年、北九州市生まれ。私立高校教諭を経て、浄土真宗本願寺派・永明寺(えいみょうじ)住職。「お寺を普段使いしてほしい」との思いから、2016年にツイッター上で情報発信を開始。時事的な話題を織り交ぜつつ、仏教の魅力を伝える軽妙なつぶやきが人気を呼ぶ。アカウント(@matsuzakichikai)のフォロワー数は2万5千人超。寺の公式YouTubeチャンネルも運用中。
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