連載
日中戦争のさなか、五民族が共存した建国大学 101歳が語る満州国
満州教育専門学校の付属小学校を卒業後、私は奉天第一中学校(5年制)に入学した。
車に乗り始めたのは中学3年生の14歳の頃だ。当時、父親が満州銀行から自動車会社に転職したため、私も自然と車に詳しくなった。
中学5年生の秋、私は校長に呼び出され、満州国に新しくできる建国大学を受けてみないかと勧められた。
満州国の国是である「五族協和」を実現させるため、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から優秀な学生を選抜し、将来の指導者を育成するために設立される6年制の国立大学らしかった。
私は、様々な民族が手を取り合い、米国のような国造りをするのだろうかと思い描いた。
かつて大連にいたころは、自宅が旧ロシア人街にあったこともあり、小学校の同級生にはロシア人や、富裕層の中国人や朝鮮人たちが、ちょうど外国人学校に入学するような感覚で一緒に学んでいた。
ところが、奉天の満鉄付属地に移ってからは、中国人が暮らす城内とは隔離され、居住区は完全に日本人だけのコミュニティーになっていた。そこには常に「日本人は日本人らしくしなければいけない」という偏屈な考えがあった。
私は満州国を、いつも周囲を気にしないですむ大連のような国にしたいと思い、建国大学を受験することにした。
日本人の受験資格は「20歳以下で中学校の成績がトップクラス、志操堅固、将来は大陸経営に献身する者」という条件付きで、学校と県の推薦を受けた者に限られていた。全寮制で就学費用は全額国費でまかなわれ、毎月の手当も支給される。個人負担は一切なしという好条件だったため、日本人定員枠の75人に対して約1万人が応募した。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
1/12枚