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学校がつらい…「うわわオバケ」家族で研究 発達障害との向き合い方

ご家族をふくめ子どもの頃から話を聞かせてもらっていた高橋紗都さん(中央)。28歳になった現在は自分の特性を伝えて生き生きと働いています
ご家族をふくめ子どもの頃から話を聞かせてもらっていた高橋紗都さん(中央)。28歳になった現在は自分の特性を伝えて生き生きと働いています 出典: 朝日新聞社

息子が「広汎性発達障害」と診断されてから20年ほど、子育てや取材を通して、父として記者として「発達障害」と向き合ってきました。そんな筆者が15年にわたって話を聞いてきたアスペルガー症候群の女性は、不登校の時期もあり悩みましたが、現在は生き生きと働いています。職場に自分の特性をうまく伝えられたのは、子どもの頃の「うわわ研究」が生きているといいます。(朝日新聞記者・太田康夫)

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批判的な視線が痛かった

大阪府に住む高橋紗都さん(28)は、小学3年生の時にアスペルガー症候群と診断されました。

小学校の時には、学校に通えず不登校となりました。しかし現在は、大阪府内の病院で生き生きと働いています。

紗都さんは、就職するにあたり、自身の特性や苦手なこと、配慮をお願いしたいことなどをまとめ、病院側に渡しました。そのことで職場の配慮を得られています。

私が紗都さんを初めて取材したのは2008年。当時、紗都さんは小学6年生でした。以後、ご家族を含めて何度かお話を聞いてきました。

幼稚園の頃に紗都さんが登園を嫌がった時、父・純さんと母・尚美さんは、なだめすかして何とか1年間ほど通わせました。

しかし、紗都さんは夜中にうなされ、発熱が続くようになりました。

両親には登園を嫌がる理由は分かりませんでしたが、わがままで嫌がっているのではないことは理解できました。

そこで、無理に登園させることをやめました。周囲からは、「箱入り娘」「家の居心地が良すぎるのでは」などと言われました。「過保護」「我慢が足りない」などと、育て方や本人の性格の問題として捉える批判的な視線が痛かったそうです。

心も体も悲鳴を上げる

小学校でも、入学から1カ月もしないうちに登校を嫌がるようになりました。

両親は、何とか通わせようと試みました。しかし、紗都さんは2学期を迎えたころ、夜中に「嫌や!」と跳び起きて泣き、髪の毛を抜いたり、体をたたいたりする自傷行為を始めました。

心も体も悲鳴を上げている様子をみて、両親は無理に通学させることをやめました。家では、ゆったりと過ごし、母・尚美さんが勉強に寄り添いました。

一方で、両親には紗都さんがなぜ学校に行けないのか分かりませんでした。

理由を尋ねても、「嫌や」「しんどい」と返ってくるだけでした。

出典: ※画像はイメージです Getty Images

次第に分かってきた過敏なところ

8歳になったころから、紗都さんは「学校に行くと『うわーっ』となる」と説明するようになりました。

「うわーっとなる」と表現するその内面を知るため、家族で「うわわ研究会」を作りました。

両親は「うわわオバケ」と名付けたキャラクターを設定し、紗都さんは、つらい状況を「うわわオバケ」に例えて説明するようになりました。

例えば「音うわわオバケ」は、大きな音や急に鳴る音、雑踏のようなザワザワするところで出ます。耳の中でトラックが走り、火が燃えているような感じになります。

出典: ※画像はイメージです Getty Images

紗都さんは、集団生活でつらかったことなども具体的に伝えるようになりました。

授業中に児童たちが「ハイッ、ハイッ」と大声で、パラパラ手を上げている様子。給食時の「いただきます」と一斉に言う声……。

次第に、紗都さんは聴覚が過敏なのだと分かってきました。ネットなどで、聴覚過敏と発達障害との関連を示す情報もありました。

専門医は、「自閉スペクトラム症のアスペルガー症候群」との見立てを示しました。

「うわわ手帳」で見えてきた内面

診断を受けた翌年、小学4年生の時から、紗都さんは、「うわわ手帳」と名付けた白い本に、自分がどう困っているのかをつづり始めました。

以下は、「うわわ手帳」で見えてきた紗都さんの内面の一端です。

紗都さんがアスペルガー症候群と診断されてから、小学校は以前より理解を示してくれるようになりましたが、必ずしも十分ではありませんでした。

中学校では、紗都さんが聴覚過敏で大きな音が苦手だということを、学校全体で理解してもらえました。

2年生からは、週1回、担任教員と放課後に静かな校舎で、マンツーマンの授業を設定してくれました。

中学卒業後は、通信制高校に進学。自宅で教材を使って学びながら、月1~2回、大阪市内の学校に電車で通学しました。

高校を卒業した後、大阪と京都の私立大学の科目履修生として、音楽理論などを学びました。

職場に特性を伝えて、生き生きと働いているという紗都さん(中央)
職場に特性を伝えて、生き生きと働いているという紗都さん(中央) 出典: 朝日新聞社

苦手なことを職場に伝える

こうして一歩ずつゆっくりと成長を重ねてきました。

さて、大学の科目履修を終えた後、どのような進路を選ぶか――。

紗都さんは幼い頃からギターを習ってきました。コンクールで受賞をした経験もあり、YouTubeにあげた演奏は、218万回の再生回数を数えるものもあります。紗都さんが習うギターの先生は、プロとして活動することを勧めました。

紗都さんはギターの演奏は好きですが、プロとなると様々な人たちと関わり、各地へ赴かねばなりません。

環境の変化が多い仕事よりも、安定した環境でコツコツと積み重ねる仕事が自身に向いている、と考えました。

ハローワークで、病院の健診センター職員を「障害者枠」で募集していることを知り、病院の見学と実習をすることになりました。

実習前、紗都さんは、自分にはどのような特性があるのか、どんなことが苦手なのか、苦手なことを和らげるためにどのような工夫をしているのか、職場にはどのような配慮を望むのか、を病院側に伝えました。

以下は、伝えた内容の一部です。

【特性や苦手なこと】
・強い感覚過敏(とりわけ聴覚)があり、電話のベルや、大きな声での会話が頻繁に聞こえるような環境は疲れやすいです。

【自分でしている工夫や配慮をお願いしたいこと】
・耳栓などのアイテムを使用し、刺激を軽減する工夫をしています。
・音や視覚的刺激が少ない座席の使用など、できる範囲で静かな環境で就業できるようご配慮いただきたいです。

安心できる環境で働ける

このように自身を分析し、他人に伝えることができた原点は、小学生のときの「うわわ研究会」と「うわわ手帳」にあります。

紗都さんは、両親が設定した「うわわオバケ」を通して、つらい状況を伝えられました。

「うわわ手帳」に内面を記すことで、自身の苦手なことを把握し、両親にもより理解してもらえるようになりました。

紗都さんが刺激に敏感で、しんどくなってしまうことは、外からはなかなか分かりづらいのですが、きちんと説明をすれば分かってくれ、サポートを得ることができました。そうした経験の積み重ねがあったのです。

紗都さんは、職場の上司の細やかな気遣いをありがたく感じています。

仕事が立て込んできた時、上司は「大丈夫?」と声をかけてくれます。職場の音や人の動きが気になるときには、別室で仕事をすることもあります。

信頼できる上司のもとで、安心して仕事ができ、しんどいときには「しんどい」と言えます。

感覚の過敏さは、今もあり、疲れている時は一層きつくなります。しかし、職場では思ったほど過敏な感覚に苦しむことはありません。

それは、安心できる環境で働けているからだと思っているそうです。

20年ほど前、幼稚園生だった息子が発達障害と診断された――。そこで、自分と、情報を求める人々のために取材を始めました。親は、当事者はどう成長したか。自分は、親として何か変われたのか。拙著「記者が発達障害児の父となったら」(朝日新聞出版)でも紹介しています。

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