連載
建国大学に集まった名物教授、毎晩の「座談会」 101歳が語る満州国
私が第1期生として入学した建国大学の教授陣には、大学の考案者である石原莞爾少将が提案した通り、当時の学界の名物教授たちが思想や信条に関係なく、広く日本国内外から集められていた。
例えば、中国法制史を教えた滝川政次郎教授は後の東京裁判で弁護人を務めた人物だったし、崔南善教授においては、1919年の「3.1独立運動」で独立宣言書を起草するなど、当時の朝鮮を代表する独立運動家の1人だった。
それゆえに、教室での講義は常に熱気に満ちあふれていた。江戸時代の朱子学者の話ばかりする若い日本史の助教授に対し、学生たちが「個人の話ではなく、日本はどうあるべきかを話せ」と詰め寄る場面も見られた。
学生たちは講義だけでなく、休日に気に入った教授の自宅に押しかけて話を聞く「課外授業」にも情熱を燃やした。
私が師事した登張信一郎(登張竹風)教授は、明治の文豪泉鏡花の小説「婦(おんな)系図」に出てくるドイツ語教師のモデルともいわれ、明治、大正における文学界の重鎮だった。
私は毎週日曜日になるとドイツ語を学ぶ仲間と連れ合って登張教授の自宅に押しかけ、四斗樽(たる)の日本酒を飲みながら教授との談論を楽しんだ。日本で独和辞典を最初に編纂した教授の蔵書の多くがフランス語だったことには大いに驚かされた。
戦後、登張教授から頂いた書簡には「ドイツは負けたが、ゲーテは死なない。『ファウスト』を読みたまえ、『タウリス島のイフィゲーニエ』を読みたまえ」と書かれていた。目の前の風潮に流されるな、広く本流を見よ、と諭されたのだと思っている。
私は戦後に生まれた息子に、敬愛する教授の「信一郎」という名前を付けた。
学生は出身民族に関係なく、17、18人が一つの「塾」と呼ばれる寮で生活した。塾では就寝場所として1人1畳のスペースが与えられ、全員が枕木のように横一列になって眠った。五族協和の実践を目指し、同じ民族の学生同士が隣り合わないように配置されるほどの徹底ぶりだった。
指導教官が塾頭を務めたが、日常生活に立ち入ることはなく、在学6年間は文字通り異民族の学生同士の裸の付き合いとなった。
「人の生涯は信念と思想と行動が一貫して働くものである」。それが大学の実質的なトップである作田荘一副総長の教えだった。
その教えを実践するため、塾生活には一切の規則がなかった。指導教官も学生の相談には応じるが、干渉はせず、塾生同士の切磋琢磨(せっさたくま)に任せていた。
午前中は教室で講義を受け、午後は柔剣道や弓道、合気道などの武道のほか、畑作業などの農事訓練や、馬術やグライダー、軍事訓練などに汗を流した。1940年には蔵書数15万冊と言われた図書館が開館し、日本では発禁本となっていた共産主義に関する書籍なども読むことができた。
建国大学の塾生活における最大の特色は、毎晩開催される「座談会」と呼ばれた討論会だった。言論の自由が保障された空間で、異民族の学生同士が激しく意見をぶつけ合うのである。
新しい国造りに青雲の志を燃やす日本人学生に対し、日本の大陸進出の美化はまやかしだと反発する中国人学生。満州国の国造りを成功させることが、将来の朝鮮独立への道を開くことにつながると現実路線を敷く朝鮮人学生。被支配の立場からの脱却を目指す台湾人やモンゴル人の学生。共産革命から逃れ、安住の地を作りたいと陽気にはしゃぐ白系ロシア人学生。
学内の論争だけでは飽き足らず、敷地外の湖畔にあった泥を固めて作った茶店は毎夜、点呼後に抜け出した学生たちの隠れた論争の場にもなっていた。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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