連載
中国人学生の検挙と真珠湾攻撃がもたらした衝撃 101歳が語る満州国
建国大学での生活は、少なくとも開学3年間は創立の趣旨である学内の自治が守られていた。しかし、1941年暮れから1942年春にかけて10数人の中国人学生が反満抗日分子として憲兵隊に検挙されたことを境に、学内の雰囲気は大きく変わった。
振り返ってみると、理想主義に燃えていた日本人学生と比べても、中国人学生たちははるかに大人で、現実主義であったように思う。
憲兵隊の手入れがあった日の朝、私の隣に寝ていた中国人学生Rの姿がいつの間にか見えなくなっていた。まさか、とは思ったが、何事も気兼ねなく話し合える間柄だと思っていたRが黙って私の前から姿を消したショックよりも、それまで何も気づけなかった自分の未熟さに辟易(へきえき)した。
中国人学生にとっては、大学でいくら「五族協和の国造りだ」と教えられても、実際は関東軍がにらみをきかし、日米開戦につきあわされるだけの「きれいごと」だと本質を見抜いていたのだろう。
これは後で知ったことだったが、Rだけでなく、数人の中国人学生があの日の朝、同時に姿を消していた。Rは建国大学に失望して国民党軍へと走ったが、中にははるばる延安まで逃避行を続け、共産党軍に身を投じた学生もいた。彼らの中には戦後、日中国交再開後に外交官として日本に赴任してきた者もいる。
中国人学生が逮捕された後、我々日本人学生は憲兵隊へと日参し、彼らへの差し入れと解放嘆願に走り回った。
面会を求めたが許されなかったため、封書で「諸君は破廉恥罪で捕らえられたのではない。民族のために自ら信じることを命懸けでやろうとした政治犯である。胸を張って生きて欲しい」との激励文を送った。
学生たちはそれぞれの民族の将来を考え、進むべき道について議論し合い、青春の血をたぎらせていた。腹を割って話し合える友を得てこそ、国際協調の道が開かれると信じていた。
1941年12月8日に起きた日本の真珠湾攻撃は、建国大学で異民族と共に学ぶ我々学生同士の関係に大きなくさびを打ち込む出来事であったように思う。
建国大学の学生たちは講堂に集められ、作田荘一副総長から「動揺することなく我々の目指す国造りに精進しよう」と訓示を受けたが、私にとっては、日本軍による真珠湾攻撃がまるでどこか別世界で起きた出来事のように思えてしかたがなかった。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
1/17枚