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連載

#10 101歳からの手紙~満州事変と満州国~

「五族協和」の建国大学、外で見た厳しい現実 101歳が語る満州国

建国大学で勉強を続ける第1期生(建国大学同窓会提供)
建国大学で勉強を続ける第1期生(建国大学同窓会提供)

目次

101歳からの手紙
1931年9月18日、中国東北部の奉天駅近くで、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破される柳条湖事件が起きた。日本が泥沼の「15年戦争」に突き進むきっかけとなった満州事変。その現場やその後建設された満州国を間近で見続けた日本人がいる。満州国総務庁の元官僚先川祐次さん、101歳。満州事変から90年の今、当時の内実を初めて語る。連載第9回は「脱走旅行計画」。(編集=朝日新聞記者・三浦英之)
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研修として学外へ

建国大学での塾(寮)生活は、たとえ民族が違っても、寝食を共にすることで自然と仲間意識が培われることを教えてくれた。主義や主張が違っても、気が合う相手とならば、ざっくばらんに話ができる。

1943年の夏、私は同期の第1期生6人と共に、研修として万里の長城に近い旧熱河省へと派遣された。

我々はどうせ行くならこの機会に研修を抜け出し、長城を越えて北京へ、さら南京を経てシンガポールまで行こうと企てていた。「アジアの現状を見ずに、国造りなどできない」と粋がっての脱走計画である。

しかし、実際に現地に赴いてみると、熱河省の風景は新京や奉天などの大平原とは違い、掛け軸で見る墨絵のように山々が険しく連なっていて、とても抜けられそうにない。

山間の水の枯れた川を道路代わりにトラックで進むのだが、石だらけの川底を進むのでパンクが続発し、移動よりも修理の方に時間を取られた。護衛隊員たちは手伝う様子もなく、青白い顔で阿片(アヘン)をチューインガムのようにかみながら雑談している。

大学では想像もしなかった現実

夕刻、渓谷を見下ろす崖っぷちの赤茶けた土塀の集落にたどり着くと、護衛隊長から「ここは『通匪(つうひ)部落』です。コレラが流行しています」と告げられた。

当時は共産党軍の遊撃隊が出没するため、住民は土塀に囲まれた集団部落に集められ、昼間だけ自分の畑に出かけることが許されていた。それでもこっそり共産党軍と通じている部落があり、それらは「通匪部落」と呼ばれていた。

我々は屋外にテントを張った。

夜が明けると、泥作りの家からうめき声が漏れてくる。私たちを見つけた部落の住民たちが「ヤオヤオ(薬々)」と痩せ細った手を差し出して、薬をせがんでいるのである。コレラによる脱水症状で白く干からびた顔をした病人たちが、部落の中をよろめき歩いていた。

現実を見る限り、建国大学で毎日耳にしていた「大東亜共栄圏」や「五族協和」というキャッチフレーズは、実態の伴わない空念仏であるように思えた。

日本の戦況についても同じで、その後も各地を回る度に、現地に駐屯する日本軍兵士からは「昼間、営門の前に立っていた歩哨が身ぐるみをはがされた」「夜間、トーチカにこもって警戒していると、共産党軍が隊列を組んで行進していく」などと、大学のある新京では想像もしていなかった現実を教えられた。まさに「聞く」と「見る」とでは大違いだった。

中国・熱河省(現在の河北省北部)の朝陽城外に到達した関東軍=1933年
中国・熱河省(現在の河北省北部)の朝陽城外に到達した関東軍=1933年 出典: 朝日新聞社

銃声が響いた夜

研修では民家に泊めてもらうこともあったが、貧しい住民たちが気を使うのと、コレラの感染が恐ろしかったのもあり、部落の空き地を選んでテントを張ることが多かった。

その日の夜は、午後10時ごろになって猛烈な夕立に見舞われた。水が川のようになってテントの中に流れ込んでくる。銃剣で四隅に溝を掘り、やっと浸水を止めたところでぱったりと雨がやんだ。

途端、「パーン、パーン」と闇夜をつんざく銃声が聞こえた。慌ててランプを消し、緊張と恐怖ではいつくばっていると、「ヒュー、ヒュー」と流弾が闇を引き裂く音が聞こえた。間もなく「プスッ、プスッ」とテントを弾が突き抜けた。

声を出せないでいると、ざわざわと人声がして、どうやら共産党軍が川を渡り、土塀を乗り越えてこちらに向かって来そうな気配だった。

私が恐怖感で震えていると、闇の中で中国人学生のIが「俺が話してくる」と言った。

Iがテントを出ていくと、一瞬ざわめきが起こり、足音が止まった。まるで時間が止まったかのように長く感じられ、心臓の音が大きく聞こえた。しばらくして話し声は聞こえなくなり、人の群れが遠のいていくのがわかった。

間もなく、Iがテントの裾をたくし上げて帰ってきた。「どうだった?」とかすれた声で尋ねたが、Iは黙って毛布にもぐりこんで寝てしまった。

戦後、中国で大学教授になったIが、福岡の我が家を訪ねてきた時、熱河省での件を尋ねると、彼は「ポン友(朋友)だったからさ」とこともなげに言った。

Iは清朝の愛新覚羅一族として生まれ育ち、俗人とは違った感覚を持っていた。彼の感覚からいえば、皇帝溥儀にとっては、日本も、中国共産党も、敵ではない。「育ちの違い」から、あの日の兵士たちも引き下がったのではなかったか。

Iとは建国大学の6年間、相撲仲間で文字通り裸の付き合いだった。晩年は、私のところによく国際電話をかけてきた。日本と中国が必ずしもうまくいっている時期ではなかったが、Iは「『日中』だから、明るいさ」とよく冗談を言って笑っていた。

子どもがおらず、奥さんの介護に明け暮れていたようだったが、98歳で亡くなった。(※第10回「満州国総務庁外国情報科」は10月8日の配信です)

先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。

 

満州事変から90年。その現場やその後建設された満州国を間近で見続けた日本人がいます。満州国総務庁の元官僚先川祐次さん、101歳。先川さんが当時の内実を初めて語る「101歳からの手紙~満州事変と満州国~」を随時配信します。
研修では民家に泊めてもらうこともあったが、貧しい住民たちが気を使うのと、コレラの感染が恐ろしかったのもあり、部落の空き地を選んでテントを張ることが多かった。

その日の夜は、午後10時ごろになって猛烈な夕立に見舞われた。水が川のようになってテントの中に流れ込んでくる。銃剣で四隅に溝を掘り、やっと浸水を止めたところでぱったりと雨がやんだ。

途端、「パーン、パーン」と闇夜をつんざく銃声が聞こえた。慌ててランプを消し、緊張と恐怖ではいつくばっていると、「ヒュー、ヒュー」と流弾が闇を引き裂く音が聞こえた。間もなく「プスッ、プスッ」とテントを弾が突き抜けた。

声を出せないでいると、ざわざわと人声がして、どうやら共産党軍が川を渡り、土塀を乗り越えてこちらに向かって来そうな気配だった。

私が恐怖感で震えていると、闇の中で中国人学生のIが「俺が話してくる」と言った。

Iがテントを出ていくと、一瞬ざわめきが起こり、足音が止まった。まるで時間が止まったかのように長く感じられ、心臓の音が大きく聞こえた。しばらくして話し声は聞こえなくなり、人の群れが遠のいていくのがわかった。

間もなく、Iがテントの裾をたくし上げて帰ってきた。「どうだった?」とかすれた声で尋ねたが、Iは黙って毛布にもぐりこんで寝てしまった。

戦後、中国で大学教授になったIが、福岡の我が家を訪ねてきた時、熱河省での件を尋ねると、彼は「ポン友(朋友)だったからさ」とこともなげに言った。

Iは清朝の愛新覚羅一族として生まれ育ち、俗人とは違った感覚を持っていた。彼の感覚からいえば、皇帝溥儀にとっては、日本も、中国共産党も、敵ではない。「育ちの違い」から、あの日の兵士たちも引き下がったのではなかったか。

Iとは建国大学の6年間、相撲仲間で文字通り裸の付き合いだった。晩年は、私のところによく国際電話をかけてきた。日本と中国が必ずしもうまくいっている時期ではなかったが、Iは「『日中』だから、明るいさ」とよく冗談を言って笑っていた。

子どもがおらず、奥さんの介護に明け暮れていたようだったが、98歳で亡くなった。(※第10回「満州国総務庁外国情報科」はこちらです)
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