連載
国務院の地下室で知った戦況、画策した裏取引 101歳が語る満州国
私が学んだ建国大学は8期生を迎えるまで続いたが、日本の敗戦と共に、わずか8年で閉学した。そのため、国造りの現場に実際に配置されたのは結局、私たち第1期生だけだった。
日本人卒業生は兵役を免除され、卒業試験が政府の高等文官試験を兼ねていたため、我々は高等官試補として満州国の省庁などに配属されることになった。
私は満州国総務庁弘報処に配置された。職員数は約280人。私は早く仕事を覚えたかったが、高等官試補ということで、科長の隣に机を置かれた。「あなたは偉い人だから」と誰も仕事を教えてくれない。
着任2週間後、総務庁の参事官にあいさつに行くと、「今、何をしている?」と尋ねられた。「天井の桟を数えています」と答えたところ、「それはいかん」と言われ、即座に参事官特命で外国情報科勤務となった。
満州国国務院の地下に極秘の10数の部屋があり、24時間態勢で、世界中の短波放送や電報を受信していた。独テレフンケン製の受信機を使い、白系ロシア人など語学の専門家たちが放送内容を文書に書き起こしている。
私の仕事はその電報情報をまとめ、諜報(ちょうほう)部門から集まってくる内外の情報と整理して、報告書を作成することだった。
そこで私は日米戦争の戦況が、日本からの報道にあるような芳しいものではなく、米軍側の反転攻勢にさらされていることを知った。各電報は、南太平洋の戦場で、米軍が艦砲射撃で水際の日本軍陣地を破壊し、反撃できないようにしてから上陸してくることや、彼らがジャングルを爆撃した後の空き地に、穴の開いた畳1畳ほどの鉄板を無数に敷き詰め、わずか3週間で飛行場を造る能力を持っていることなど、日米両軍に圧倒的な戦力の差があることを伝えてきていた。
その一方で、驚くことに、満州国政府は当時、敵国である米国の企業と裏取引をして、必要部品をひそかに輸入しようと画策していた。
満州ではその頃、松花江下流にアジア最大級の豊満ダム発電所を建設中だった。発電機のうち2基は米国製で、建設が進むうちに開戦となり、米国企業から部品が届かなくなっていた。
そこで満州国政府は中立国であるスイスに闇会社を設立し、こっそりと米国企業側と裏取引をして、部品を欧州から大連に運び込もうとしていた。しかし、取引前に米国政府に気付かれ、結局、ドイツの企業の部品で急場をしのいだ。
このほか、満州産の大豆と交換する形で、ドイツの企業から黒水熱(マラリアに起因する合併症)の薬や偵察機で使う夜間撮影用の赤外線フィルム、スウェーデンの企業から航空機に使うボールベアリングを輸入する極秘計画も進められていた。
実現はしなかったが、奇想天外なものでは、日本国内で収穫されたミキモト真珠計4トンをドラム缶に詰め、中国南部に運び、中国側に軍事物資を運んでくる米国の地下組織と接触して、売りつけるという計画もあった。
私はそれらの情報を日々とりまとめ、日満両政府用に計6冊限定で報告書を作り続けた。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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