連載
「負けた後を考えなさい」戦地の私へ上官の言葉 101歳語る満州国
満州国総務庁に勤務していた私は当初、日本の兵役を免除されていた。しかし、戦局の悪化に伴って政府方針が変更され、1943年12月、ソ連国境にほど近いハイラルの部隊に配属されることになった。
私を可愛がってくれていた総務庁の参事官は入営前に私を呼び出し、「日本は負けるよ。負けた後の生き方を考えなさい」と言って、クラウゼビッツの「戦争論」を手渡してくれた。
配属されたハイラルの部隊は、草原の丘陵地帯に敵を呼び込み、トーチカ群から猛攻できるような陣を敷いていた。毎朝、「脱走兵は銃殺する」との訓示があり、「逃げてもオオカミに食われるだけだぞ」と脅かされた。
私たち初年兵は夜間演習で仮想敵軍となり、古年兵たちが潜むトーチカ陣地に向かって何度も匍匐(ほふく)前進をさせられた。
外は零下52度の厳寒で、周囲がキラキラと光って見えるのは、空気中の水分が凍って降ってくるからだと教えられた。
ノモンハン事件以来、この戦場に缶詰め状態にされている古年兵たちは、生活や気持ちが荒れに荒れていた。
夜の点呼後、蚕棚のような3段ベッドの上で花札に熱中し、「おい新兵、痰(たん)ツボ持って来い!」と呼び出しては、新兵が捧げ持った痰ツボに向かってベッドの上から小便をした。
建国大学在学中、両親がいる奉天に帰省した際、ノモンハン事件の戦利品が広場で展示されているのを見たことがあった。
ソ連軍のトラックは米国製のT型フオードをまねた旧式だったが、戦車は巨大で装甲が厚く、日本の戦車との違いに圧倒された。
説明をしてくれた日本軍将校たちは、ソ連軍の戦車はガソリンエンジンでスピードは速いものの、日本軍の火炎瓶攻撃で面白いようによく燃えた、と日本軍の勝利を絶賛していた。
その裏で、奉天の中国人たちは「関東軍は内モンゴルの草原で、ソ連軍の戦車部隊や野戦重砲で散々にやられた」とうわさしていた。
古年兵たちは「自分たちが日本に戻ったら、ノモンハンでの敗戦が国民にばれるので、帰してもらえないのだ」と不満を募らせていた。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
1/22枚