教育を終え、徳島連隊へ
1944年の初夏、私は熊本陸軍予備士官学校での教育を終え、徳島連隊へと派遣された。偶然にも建国大学で教授を務めていた辻権作少将がかつて連隊長だった部隊で、上官からは「お前は辻閣下の教え子か」と驚かれた。
当時、徳島連隊の本隊は激戦地のビルマに派遣されており、留守部隊の主力は本土決戦に備えるために地域から臨時召集された年配の召集兵たちで構成されていた。年齢的にも体力的にも「意気込みはあるが、体がついてこない」といった40代が多く、一見健康そうに見える兵士も「実は痔(じ)が悪化しているのです」とばつが悪そうに答える始末だった。
私は年配者に、血気盛んな若者並みのことを求めても落後者を増やすだけなので、連夜の空襲警報で寝不足が続いている彼らの体力を、少しでも温存する方法を考えなければいけないと思った。
ある日、演習場の丘の上で召集兵たちと休息していると、突然、丘の陰からグラマン戦闘機が現れた。
私は慌てて「退避っ!」と叫んだものの、腰が抜けてその場から立ち上がれなくなった。
戦闘機は取り残された私を目がけて真正面から突っ込んできた。が、突如、キーンと機体の腹を見せて急上昇した。
私は何とか立ち上がろうともがいたところ、ちょうど真横に置かれていた高射機関銃に手が触れた。それにすがりつくようにして立ち上がろうとしたら、偶然引き金に手がかかり、ダダダダと銃口から弾が飛び出した。もちろん、当たるはずもない。
見上げると、先ほどの戦闘機が旋回してこちらに向かって来るところだった。操縦士の顔がはっきり見えるほどにまで降下してきたが、目的が偵察だったのだろう、そのまま上昇して飛び去っていった。気がつくと、ズボンがびっしょりとぬれていた。
その夜、空襲警報が鳴って召集兵たちと一緒に防空壕(ごう)に退避した。暗闇の中で男の声が言った。
「うちの隊長はすごいぞ。敵機が来たとき、俺たちを逃がした上で、自分は敢然と高射機関銃で撃ちまくっていたんだからな」
召集兵たちは黙ってその声を聞いていた。その日から彼らの私を見る目が変わったように思う。

阿波踊りのイメージで訓練
課題は「暗夜に紛れて丘陵地にある敵のトーチカを急襲し、小型爆弾を投げ込んで陥落させること」だった。
丘のふもとからトーチカまでは約100メートルの斜面だが、敵に察知されれば、探照灯で照らされて皆殺しにあうため、兵は散開したまま無言で地面をはい登らなければならない。
顔を上げられないことに加え、終始無言なので、方向音痴の召集兵たちはすぐにバラバラになってしまう。爆弾投入と同時に全員突撃とはとてもいかない状況だった。
私は満州国総務庁の参事官からもらったクラウゼビッツの「戦争論」に「指揮官は戦況を正確に認識し、状況上ありえないことを望んだり押し付けたりしない」とあったことを思い出し、根性論は真っ先に捨てた。そして、ふと阿波踊りのイメージで丘を登らせればうまくいくのではないか、とひらめいた。休憩時の雑談で、よく召集兵たちから阿波踊りのお国自慢を聞かされていたからである。
私の提案に召集兵たちはニヤッと笑った。年配者だけに皆、阿波踊りのベテランぞろいである。
「阿波踊りのテンポで匍匐(ほふく)前進をすれば、隊列が乱れることはありませんね」
私は部下に頼んで、マッチのようにこすると発火するネズミ花火を買いに行かせた。それを木の塊にくくりつけて、投げると炎が渦巻く「模擬爆弾」のような仕掛けを作って当日に臨んだ。
検閲の夜、召集兵たちは私の台本通りに行動した。
他の部隊が全員バラバラになって丘をよじ登り、逐次的に陣地を攻撃したのに対し、我々のチームは模擬爆弾の花火を合図に全員が一丸となってトーチカの裏から突入することができた。
結果の講評は「完勝と認める」。連隊一の成績で、我々のチームは褒美として全員に10日間の休暇が与えられた。
私にも中隊長から休暇の許可が出たので、満州に帰りたいと申し出たら、遠すぎて駄目だというので、母の実家がある山口に帰ることにした。(※第13回「8月15日の梨」はこちらです)
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。