連載
終戦の日「負けた」というより「すべて終わった」 101歳が語る戦争
1945年6月ごろになると、連日山陰から敵のグラマン戦闘機が現れるようになり、部隊の周辺もにわかに慌ただしくなった。
私たちの部隊は鳴門海峡の防衛にあたるため、徳島市から撫養町(現徳島県鳴門市)に移動し、米軍の上陸戦に備えるための陣地構築に動員されるようになった。日本軍は、中国大陸で悩まされ続けたゲリラ戦を米軍に対して実施する考えのようだった。
部隊の本部を地域の寺に置き、学校や公会堂などに分宿して、文字通り地域に溶け込んで訓練を続けた。
とは言え、召集兵たちは皆、地元出身なので、連隊の営舎から故郷に帰ったようになってしまい、戦地に来ているという緊張感がどうしても持てない。
山に壕(ごう)を掘ろうにも、石工用のハンマーやシャベル程度の道具しかなく、専門家もいないので、掘っても崩れるばかりだった。武器は旧式戦車の砲塔から外してきた速射砲だけで、それを工夫して高射砲として使えという指示だった。
作戦上では「鳴門海峡の島々を要塞(ようさい)化し、紀伊水道を北上してくる米軍を迎撃する」という勇ましいものだったが、すべてが無駄な努力のように思われた。
7月4日には徳島市が焼夷(しょうい)弾で火の海となり、8月2日にはグラマン戦闘機が鳴門海峡に地上攻撃をかけてきた。私たちの部隊は陣地の所在を知られぬよう応戦を禁じられていたので、上空で繰り広げられる米軍機と日本の戦闘機との空中戦をただ傍観するだけだった。
8月15日は朝から空が晴れ渡り、空気がシーンと静まりかえって、人の声も鳥の声も聞こえなかった。私には前夜に戦争終結の連絡が入ったが、今まで絶えず持ち続けていた不安と予感が突然現実になると、気持ちが宙に浮いてしまったようになり、具体的に何か物事を考えることは不可能だった。
駐在していた寺の廊下で正午から召集兵たちと一緒に玉音放送を聴いたが、正直なところラジオの雑音でよく聴き取れず、誰もが「そうか……」と半信半疑だったと思う。
集まっていた近所の人たちもただ茫然(ぼうぜん)とした表情で、町全体が感情を失っていた。「負けた」というよりも、胸の底がスーと冷えて、「すべてが終わった」といった感じだった。
私は陣地の前に召集兵たちを集め、全員で車座になって話し合うことにした。感情に走って大声をあげる者もなく、こみ上げてくる安心感と不安感のはざまで、自分を抑えかねているように皆視線を散らして黙りこくっていた。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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