連載
引き揚げ支援の裏で、満州の「資産」いかに運ぶか 101歳が語る戦後
終戦直後、私は徳島の名勝「大歩危小歩危」で療養生活を送った後、ひとまず本籍のある淡路島の親類宅に身を寄せることにした。
すると12月の初め、京都から私宛てに突然電報が届いた。読むと、満州国総務庁勤務時代の外国情報科の元科長からで、すぐに京都に出てくるようにとの指示だった。
呼ばれるままに京都の祇園に出向くと、元科長は「皇帝溥儀を日本に亡命させる名目で、終戦3日前に空路で帰国した」と言い、「これから、満州からの引き揚げ支援事業を行うのでお前も手伝え」と告げられた。
元科長の説明によると、東京の満州国大使館には、日本の軍需工場を新潟から朝鮮北部に移駐させるための準備資金約6億円のうち、約3億円がまだ使われずに残っているため、これを基金として博多で満州国の元官吏や特殊会社の元社員らの引き揚げ支援事業を行う、とのことだった。
元科長は情報部門の責任者として部下の身元についても詳細なリストを持っており、その情報に基づいてかつての部下たちに声をかけているらしかった。
私は元科長の指示で、生まれて初めて現金60万円を詰め込んだバッグを渡され、京都の工場に残っていた寝具や生活物資を購入した後、満州国総務庁の元同僚ら7、8人と一緒に、物資をトラック7台に積み込んで、京都から下関まで約1週間かけて移動した。
途中、広島市の郊外で野宿し、焼け焦げた市街地を眺めながら、「これが聞いていた特殊爆弾か」と息をのんだが、原子爆弾や放射能の恐ろしさへの認識はなく、ただ茫然(ぼうぜん)としただけだった。
下関市に数カ月間滞在し、満州から引き揚げて来る人たちから情報収集をした後、福岡市に移動した。
博多港近くの呉服町に開設された「満蒙同胞援護会」の事務所には、すでに建国大学の2期生や3期生の見知った顔が働いていた。
ここでの仕事は、表向きは満州から引き揚げてくる人たちへの支援業務だったが、もう一つの仕事は、満州側と日本側の情報連絡を担うことだった。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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