連載
終戦後に決行された「阿片密輸」計画、結末は 101歳が語る満州国
私が戦後に携わった「満蒙同胞援護会」の任務には、機密性の極めて高いものも含まれていた。
これは私が直接担当した事案ではなかったが、同胞援護会の別の部署では、満州国の元参事官が中心となり、戦時中に奉天の倉庫に「軍用物資」として保管されていた大量の阿片(アヘン)を朝鮮半島の仁川港から佐賀県の呼子港へと運び、横浜港から外国へと売却して、その資金を引き揚げ費用などに充てる計画が進められていた。
阿片の総量は「14トン」だったと記憶している。当時、阿片の価値は金塊と同じと言われ、極めて重要な「軍事物資」だった。
しかし、1946年の初めごろだったと思うが、機帆船で九州から横浜港へと輸送中、和歌山県の港で「物資」が米軍に押さえられ、計画が頓挫した。事件後、我々の同僚が長崎刑務所に収監された。
引き揚げ事業の裏で私たちが続けていた仕事は、やがて新円切り替えで旧札が紙くず同然になり、資金的に行き詰まった。
私は戦後2年間、時代も生活する場所も変わったのに、戦中からの満州国とのしがらみの中で生きてきた自分に区切りをつける時期が来たと感じ、同胞援護会での仕事を辞めた。
日本の社会は戦後の復興期を迎え、大きく変わろうとしていた。敗戦で多くの若者が戦地から日本に復員してくるなかで、受け入れ側の企業にはできるだけ若い働き手で従業員を固めたい意向があった。
私は満州時代の先輩の世話で一時、福岡市の商社に就職したが、上司から「商談の相手にではなく、金に頭を下げるつもりで励め」と諭され、自分は商売には向いていないと半年で辞めた。
うなだれながら福岡市内の丘の上に登ったとき、一面の焼け野原の中に、老舗デパートと、西日本新聞社の社屋だけが残っているのが見えた。
これだけの空襲を受けても焼け残っている会社であれば、この先もきっと大丈夫だろうと思い、27歳で西日本新聞社に入社した。
そこでは建国大学で学んだ語学が大いに役に立った。世界を見たいとフルブライト留学生として約1年間、米国に留学してワシントン大学で学び、その後は移動特派員として、中東やアフリカを約1年間、当時はまだ珍しかった16ミリフィルムで撮影して回った。
1963年にはワシントン支局長として米国に赴任。半年後にケネディ米大統領の暗殺に遭遇した。
満州事変、満州国政府での官吏生活、敗戦、引き揚げ事業、戦後復興、ケネディ暗殺……。
振り返ってみると、多くの歴史的事件に立ち会うことができた人生だったように思う。
2010年、54歳も年下の新聞記者が私の所にやってきて、「どうか、自らの半生を書き残してください」と頼まれた。戦中戦後と機密性の高い任務に携わっていたこともあり、過去をどこまで打ち明けるべきか思い悩んだが、今なら文句を言う人もいない、後世のためになるのであればと、最後の力を振り絞って書き続けた。
101歳になった今、どうにか無事に書き終えることができて、責任を果たせたようで安堵している。
私の人生は常に、国家と民族のはざまにあった。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
また山本常雄著「阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年」(1985年、PMC出版)の中には、海老沢行秀氏から山本氏に寄せられた手記と内容として、次のような記載があります。
新聞記事の記載には密輸の経由場所として「唐津港」とありますが、先川氏は「唐津港でなく、呼子港が正しい。我々は常に呼子港を使って仕事をしていた」と証言しています。阿片の総量である「14トン」は先川氏の記憶に基づくもので、資料で裏付けることはできませんでした。(編集担当記者 三浦英之)
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