連載
日本へ一人旅させた母、時代を先取りした義母 101歳が語る満州国
当時、中国東北部の奉天(現・瀋陽)の小学校は中学年から男女別に分かれたが、私が通っていた満州教育専門学校の付属小学校は共学で、入試もあり、勉強は皆、女子の方がよくできた。
私の母は毎朝10時ごろになると学校に現れ、いつも昼ごろまで教室の後ろで授業を参観していた。
先生の質問に女の子たちはハイハイと元気よく手を挙げて答えるのに、私は声が出せない。後ろに母が立っていて緊張しているせいなのだが、母には私が弱虫だと思われたらしく、家に帰ると「ハキハキしないといけませんよ」と宿題を終えるまでおやつをくれなかった。
母は私が日本を知らない、満州生まれの軟弱な西洋かぶれだと見られないよう人一倍気を使っていた。
それゆえに、小学3年生からは毎年必ず、夏と冬の休みには母の実家である山口の祖父宅まで一人旅に出された。
胸に「一人旅」の布を縫いつけてもらい、鉄道で満州から朝鮮半島の釜山まで行き、そこからは連絡船で玄界灘を渡って、下関まで祖父に迎えに来てもらっていた。
中学生まで続いたこの一人旅では、毎年同じ車窓から見る景色の変化を通じて、満州、朝鮮、日本の国情の違いを自然と学ぶことができた。
満州の田舎はれんが造りの瓦屋根なのに、朝鮮半島に入ると、草屋根でつぶれそうな農家が連なる。田舎の泥道を草を積んだ牛車がノロノロと動き、満州の農村に比べても貧しく見えた。
玄界灘を渡ると、景色は一変する。紺碧(こんぺき)の海、白砂青松、赤い瓦や白い障子の窓。どの家の前も、砂利道がきれいにほうきではかれていた。
私は日本の風景の美しさに感嘆し、夏休みの宿題にはいつも日本の風景を描いて提出していた。
母は、私が中学3年生の夏の午後、学校から帰宅したら亡くなっていた。急性ぜんそくで37歳だった。
私は母の死後も毎日、「ただいま」と言って帰宅し、母がどこかへ出かけているだけのように思っていたが、1年後、そうではないことに気づき、急に涙が出た。
父は母の死の2年後に後妻を迎えた。奈良県の出身で、女学校の先生から我が家に嫁いできた人だった。
米シアトルに親戚がいた関係でワシントン大学に留学し、帰国後は警視庁や感化院に勤めたこともある才女で、肺を患って胸を切る手術を受けたこともあり、42歳での初婚だった。
私は義母に反発し、言い争いばかりをしていたが、それがかえってわだかまりを取り払う結果になった。
ある日、義母から「これを読みなさい」と、米国から取り寄せたマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」と、パール・バックの「大地」を手渡された。
義母は「米国ではこんなに女性が活躍している。米国が発展しているのは、封建的な欧州を離れてやってきた人たちが女性を大事にして二人三脚で努力してきたからだ」と私に言った。
当時の私の英語力ではとても読み切れない大著だったが、その内容よりも「こんなぶ厚い本を書く女性がいるのだ」と義母の話に納得がいった。日本でこれらの著作が広く紹介されたのは戦後になってのことだから、義母は随分と時代を先取りしていたことになる。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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