連載
日本製愛用でも舶来品をそろえた父 101歳の日本人が語る満州事変


舶来品をそろえた父の教え
幸か不幸か、私が当時暮らしていた中国東北部の奉天(現・瀋陽)には、世界中から集められた珍しい舶来品があふれていた。
街には「グーテルマン」という名のドイツ系ユダヤ人の店があり、我が家の応接間にはその店で購入したボヘミア製のカットグラスの灰皿が置かれていた。たばこもトルコ葉を使ったドイツのゲルべゾルテや、米国のバージニア葉を使った英国製のウェストミンスターだった。
父は日本製の「朝日」や「敷島」を愛用していたが、常々、「外国では体面上豊かに見せておかないと、日本流の『質素堅実』では経済的に貧しいと思われ、外国人からは信用されない」とよく言っていた。
「中国人は現実主義者で、日本人のような理想主義のお人よしではない。ここには米国人も欧州人もいる。中国人から『日本人は彼らよりも貧しい』と見られたら、うまくいくはずがないじゃないか」
父からは「学校で学ぶことだけが勉強じゃないぞ」とよく教えられた。
中国人は賢い
電蓄といって電気仕掛けのレコードプレーヤーが現れたのもこの頃だった。日本製はレコードを1枚ずつターンテーブルに載せ、手動で針を置かなければ鳴らないのに、米国製やドイツ製は、針を置くのも、レコードを替えるのも、すべてが全自動だった。
私はその様子をグーテルマンのショーウィンドーに鼻をこすりつけるようにして見入っていた。
「中国人は賢い」
それが銀行マンである父の口癖だった。
ある日、こんな話をしてくれた。
中国人と日本人の酒屋がそれぞれ日本から輸入したビールの販売競争をした。
値下げ競争になり、日本人は原価で販売した。ところが、中国人はさらに値を下げて売った。
調べてみると、日本人はビールだけを売っていた。
一方、中国人は日本から送ってくるビールの箱をばらして板として売り、抜いた釘を伸ばしてそれも売っていた。だから原価を割っても、競争ができたというのである。
こんな話も聞いた。
毎年、春になるとハルビンを流れる川があふれ、雪解け水で岸辺の畑も家も水浸しになる。しかし、農夫たちは慌てない。たばこをくゆらせ、ひたすら待ち続ける。
やがて水が引くと、その跡をすきで引き、種をまく。翌年また洪水になるが、苦にしない。洪水で畑に養分が流れ込んでくることを知っているからだ。
中国ではそれを「没法子」という。仕方がない、苦にしない、という意味らしかった。日本人は馬鹿にするが、自然の法則に従い、決して逆らわない。
父は「『没法子』こそが中国人の真骨頂だ。いつか日本も『没法子』にやられるぞ」といつも言っていた。

「日本人らしくない」に反発
それまでは「日本は西洋諸国に比べて遅れている。彼らを見習ってしっかり勉強をしなさい」と教えてくれていた先生たちが、「日本は神様の国で(天皇を中心に世界を一つの家にするという意味の)『八紘一宇(はっこういちう)』を目指す世界に冠たる国である」と難しい言葉で生徒を諭すようになった。
一方で、私はたとえ「日本人らしくない」と叱られても、おやつにもらうチョコレートは「森永」や「明治」の板チョコよりも、三角のプリズム形をしたスイス製のトブラローネの方がうれしかった。
図画の授業では、ドイツ製のババリアの鉛筆やペリカンの絵の具を使った。ドイツ製の鉛筆は滑りが良くて折れにくいし、絵の具はムラになりにくかった。
しかし、教室でそんなことを口にすると、「舶来品を褒めるのは、軟弱な外国かぶれだ」ととがめられ、「日本は物質万能の西洋とは違う精神の国だ」「贅沢(ぜいたく)な外国品を使うのは非国民だ」と叱られてしまう。
私はどうしても、すべて日本が優れていて、外国はつまらないという教えには素直には従えなかった。
それならばなぜ、外国製の飛行機は日本のものより速いのか? 自動車はどうしてすべて米国製なのか?
国産品使用の強要は、愛国の名の下に国民の「客観的に物を見る目」を奪い取ってしまったように思えて、残念でならなかった。(※第5回「母と義母」はこちらです)
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。