連載
行ってはいけなかった奉天の「城内」 101歳の日本人が語る満州事変


新市街は西洋の街並み
満州事変が起こる前までの満州の中央地域(現・中国東北部遼寧省)は奉天省と呼ばれ、軍閥の張作霖が支配していた。しかし、1928年に奉天市近郊で列車が爆破され、張作霖が爆死すると、息子の張学良は北京にこもり、奉天には寄りつかなくなった。
「張学良は万里の長城を隔てた北側にある熱河省でアヘンを栽培させ、もうけた金で武器を買っている」と小学校でも子どもたちの話題になっていた。
奉天の街は、城内と呼ばれる城壁に囲まれた清朝時代からの旧市街を中心にして、その城壁を囲むように中国人の住む新市街が広がっていた。メインストリートは商埠地(しょうふち)と呼ばれ、香港上海銀行(英国系)や花旗銀行(ニューヨーク・ナショナルシティバンク)など外国系の大きなビルが立ち並び、一見すると西洋の街のようでもあった。
その外側に、私たちが住んでいた満鉄付属地が広がっていた。外観はれんが造りで室内は畳敷きという、和洋折衷型の家々が軒を連ねていた。商埠地との境界には、道路を挟んで違った制服の警察官が向かい合っており、事実上の治外法権地域だった。
私が通っていた満州教育専門学校付属小学校は満鉄が建てた学校で、商埠地からほど近いところにあった。
行ってはいけなかった「城内」
幼いころ、胸に焼きついた思い出がある。
小学2年生のとき、父の転勤で大連から奉天に移ってきた暮れのこと。外は零下18度くらいの日々が続いていた。
部屋の二重窓の外側は凍りつき、室内の暖気で窓の氷が溶けてまだら模様になったガラス越しに外を見ていると、青白く光る道路に、黒い塊みたいなものがゴロゴロと転がっていた。中国人労働者の凍死体だった。
親からは中国人街である城内には「人さらいがいるから、行ってはいけないよ」ときつく言われていたが、一度、いたずら仲間で探検と称して城内の近くまで出かけていった。
城門の上に、耳から耳へ針金を通した生首がずらりとつり下げられているのが目に入り、おしっこを漏らして逃げ帰った。罪人たちで、見せしめのためさらし首にされた姿だったということを後で知った。

日本人街だった満鉄付属地
昼間にはよく、我が家の前の舗道沿いに人力車夫がたむろして、真夏の炎天下に熱い豆茶を飲みながら会話をしていた。その間を真鍮(しんちゅう)のやかんを持ったお茶売りが売り歩いていくのだが、金を払う際にはいつも言い争いになった。
日本の朝鮮銀行券は金票といって最も信用があった。一方、中国の貨幣は毎日相場が変わるので、日本人は人力車や馬車に乗るときは大抵金票ではなく、安く手に入る中国の貨幣を使っていたため、口論になった。「子どもがお金のことに口を挟むんじゃない」とよくしかられたが、中国語を忘れてしまった今でも、「むちゃくちゃ」という意味の「乱七八糟」といった悪口だけはよく覚えている。
我が家の裏庭には、庭番の呂さん一家が住んでいた。呂さんの子どもは遊びの相手だった。秋になると父の取引先の中国人から贈られた鏡餅ほどもある月餅(げっぺい)で、一部屋が埋まるほどのにぎやかさだった。(※第3回「少年と武器」はこちら)
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。