連載
壊滅した奉天軍の北大営で見たもの 101歳の日本人が語る満州事変
私が通った満州教育専門学校の付属小学校では、校長が米コロンビア大学の出身だったこともあり、よくリンカーンやアメリカ開拓史の話をしてくれた。いつも「中国人とは仲良くしなければいけないよ」と諭された。
今思うと、満鉄という会社は植民地会社として「アメリカ開拓」を意識していた節がある。校長を1年間の世界一周旅行へと送り出し、私たちはシベリア鉄道で欧州に向かう校長を奉天駅まで見送りに行ったこともある。体操の時間はボクシングとラグビーをやらされたり、体操の本場デンマークから来た金髪の青年男女から柔軟体操を教わったりもした。
父が中国人の取引先と親しかったおかげで、物騒な城内にも何度か連れていってもらった。
そこには張学良の兵器廠(しょう)があり、迫撃砲や機関銃を製造していた。工場内は騒音とほこりでかすんで見え、あちこちに割れた鉄の筒みたいなものが転がっていた。それらは削りそこなった迫撃砲の砲身らしかった。
気になったのはチェコ製の軽機関銃だった。日頃見慣れていた日本軍の黒光りするどっしりとした機関銃に比べ、物干しざおくらいの細い銃身に弾倉を差し込み、バネ仕掛けで発射する仕組みになっていた。
小学校で守備隊慰問に連れていかれた時にこの話をすると、日本軍の将校は黒光りする軽機関銃を示しながら「日本軍の兵器はみな菊のご紋章が入っており、皇国の精神が込められている」と西洋との兵器の違いを教えてくれた。
西洋では銃によって使う弾が違うが、日本は機関銃でも小銃の弾が使えるように工夫してあるので無駄がない。西洋の機関銃はやたら撃ちまくるようにできているが、日本軍は一発一発、「暗夜に霜の降るように、精神を統一して撃つ」と教えられた。
満州事変が起こる前から、日中関係が日増しに怪しくなっていることは、子どもの目にも明らかだった。
毎日のように日本の甲式四型戦闘機が街の上空を警戒するように飛んでいた。
すると、中国軍のアメリカ製カーチス戦闘機が金属音を響かせて飛来し、これ見よがしに旋回していく。
当時の日本機はフランスの木製の戦闘機を模造した旧式機で、機体の大きさもスピードも問題にならなかった。
遊び仲間と商埠地(しょうふち)に入り込んだとき、モダンなビルが立ち並ぶ街路裏で、中国人の大学生たちが白人の教官から軍事教練を受けているのを見た。
学生たちは白いコルクのヘルメットにカーキ色の半ズボン、ひざにリボンの付いたおそろいの長ソックス姿で、白人教官のタクトの指揮に合わせてさっそうと行進していた。
大人たちからは日頃、「中国の兵隊は雇い兵だから、愛国心のない烏合(うごう)の衆だ」と聞かされていただけに「これは本当に中国人なのだろうか」と見とれた。
父に連れて行ってもらった城内の兵器廠で見たチェコ製の軽機関銃を思い出し、この中国人たちがあの軽そうな機関銃を持って攻めてきたらどうなるのだろう、と不安になった。
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。
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