連載
真っ赤に染まった窓と爆発音 101歳の日本人が語る満州事変の夜


姉と私をたたき起こした父
「起きろ!」
小学5年生の秋の夜だった。姉と枕を並べて寝ていたところを、父にたたき起こされた。
「今、10時半の大連行き列車が通過した。何か起こるかもしれん。慌てるな。いいか」
父の真っ赤な顔ににらまれて身を起こした途端、北側の窓がパーッと真っ赤に染まった。息をのむ間もなくズシーンと大音響が家を揺るがした。窓ガラスが内側にグッと曲がったように見えた。
「大丈夫だ」
父がかすれた声で叫んだ。私は身動きが取れずにただ布団の襟をにぎりしめていた。
1931年9月18日の夜。
満州事変はそんなふうにして始まった。
「パーッ」「ズドーン」と放たれた閃光と爆発音
私の一家はその頃、中国東北部の奉天(現・瀋陽)の満鉄付属地で暮らしていた。
父は満州銀行の支店長だった。鉄道守備隊の将校が時々我が家に来て父と碁を打っており、守備隊関係の軍人たちも出入りしていた。父は満鉄の爆破のことを事前に知らされていたのだと思う。
それは私が生まれて初めて聞く重砲の砲声だった。
稲妻と雷鳴の関係と同じで、まず窓ガラスが「パーッ」と明るくなる。一瞬息をのむと「ズドーン」「ビリビリッ」と砲声が窓を震わせる。続いて「ヒューン」と打ち上げ花火が飛んでいくような音が空を切り、「ドドーン」と遠雷に似た爆発音が地響きをたてる。
打ち上げ花火とは違い、足元が揺れて妙に腹にこたえるが、規則正しく「パーッ」「ズドーン」「ビリビリッ」「ヒューン」「ドドーン」が続くと、最初の恐怖はいつの間にか遠のいて、次第に慣れてくるのが不思議だった。
父の説明によると、「ズドーン」の音は24センチ榴弾(りゅうだん)砲で、奉天の関東軍鉄道守備隊が旅順から2門移駐してきたものとのことだった。「ヒューン」と砲弾の飛ぶ音が聞こえるのは、直線的に飛ぶカノン砲と違い、砲弾が弓なりに飛ぶからだと教えてくれた。

大きな衝撃が転機に
ニュースの通りなら、満鉄の列車が奉天駅の北郊外にある柳条湖を無事通過した後で線路が爆破され、堪忍袋の緒を切らした日本軍が反撃に出て中国軍の北大営を攻撃し、24センチ榴弾砲が支援したということになる。
それならば、なぜ父はあの時、事前に何かが起こると察知して、私たちをたたき起こすことができたのだろう、と私は不思議に思った。
9月18日の夜の体験は、それまでのほほんと過ごしてきた少年に、大きな衝撃と転機をもたらした。
身の回りの空気が、嵐の前の静電気を帯びたようにピリピリとしていて、自分の足がうまく地に着いていないような気分だった。学校では友人たちが戦争の話で盛り上がっていたが、私は18日の夜の我が家での出来事は「言ってはいけないこと」のように思えて口にできなかった。
数日後、我が家は朝鮮半島から進軍してきた連隊司令官の宿舎として徴用され、私は女中部屋で当番兵と枕を並べて寝るようになった。
家の雰囲気ががらりと変わった。玄関から応接間、奥座敷にかけては幕が張られ、私たちは兵士たちの邪魔にならないよう裏口から出入りし、何事も親の許しなしに動き回ることはできなくなった。
私は女中部屋で一緒に枕を並べていた当番兵から軍隊のよもやま話を聞き出すと、それを翌日、自慢話として学校の友人たちに語って聞かせた。(※第2回「奉天の街並み」はこちら)
先川祐次(さきかわ・ゆうじ) 1920年、中国大連市生まれ。旧満州の最高学府建国大学を卒業後、満州国総務庁に勤務。終戦後は西日本新聞に入社し、ワシントン支局長としてケネディ米大統領の取材にあたった。同社常務を経て、退社後は精華女子短期大学特任教授などを務めた。