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連載

#13 テツのまちからこんにちは

「ぜひ見てもらいたい蒸気機関車がある」記事を書いたあと届いた連絡

卒業生はあきらめない「やっぱり弁慶号は走っていなければ」

格納庫から「下工弁慶号」を押し出す下松べんけい号を愛する会の会員たち=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影
格納庫から「下工弁慶号」を押し出す下松べんけい号を愛する会の会員たち=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影

目次

今年で100周年を迎える国内最大級の鉄道工場「日立製作所笠戸事業所」がある山口県下松市。職人を生み続けてきた地元の県立下松工業高校(下工)では昔、実習で実際に使われていた蒸気機関車がありました。何度も復活運転を繰り返してきたその小さな車体は今も、市役所そばにシンボルのように置かれています。鉄道ファンの記者(25)が、「鉄道のまち」で見聞きした出来事をレポートします。(朝日新聞山口総局記者・高橋豪)

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#テツのまちからこんにちは
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重さはデゴイチの10分の1

下松工業高校の歴史をたどる記事を出した後、私は一人の卒業生から連絡をもらいました。「ぜひ見てもらいたい蒸気機関車(SL)がある」とその男性。学校だけでなく、下松市を語る上で欠かせないSLだという噂は聞いていましたが、実際に見たことはありませんでした。待ち合わせ場所は、市役所横の広場でした。

取材でいつも通っていた道路脇、街路樹に隠れた場所にあったのは、軽自動車がやっと一台入るサイズの格納庫でした。そこには緑で塗られたボディーの小さなSLが収まっていました。

「出した方が写真撮りやすいでしょ」と、黄色いジャージに身を包んだ男性たちが、格納庫を開けてくれました。石炭がないのでSLは自力で動くわけではありません。5人がかりで目いっぱい体重を乗せ、格納庫の外までSLを押し出そうとしてくれたのですが……。5.5トンある車体は、格納庫の出入り口につっかかって進まなくなりました。

私もカメラの手を止めて手伝い、やっと空の下に姿を見せました。それでも重さはD51(デゴイチ)の約10分の1といいます。

格納庫に戻った「下工弁慶号」。左奥が下松市役所庁舎=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影
格納庫に戻った「下工弁慶号」。左奥が下松市役所庁舎=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影
出典: 朝日新聞

廃車の危機乗り越え

車体の前には「下工(くだこう)弁慶号」の文字と、何度も見てきた下松工業高校の校章が付いていました。

「私の在校当時は野ざらしになっていましたが、昔は実習用の教材として使われていました」と、連絡をもらった栗田一郎さん(74)が教えてくれました。

「弁慶号」の保存・活用を手がけるNPO法人「下松べんけい号を愛する会」の事務局長を務めています。

栗田さんが中心となり、文献などから弁慶号のデータや経歴をまとめています。それによると、弁慶号は全長約4メートル、高さ約2.4メートル、幅は約1.5メートル。1907年、東京石川島造船所(現在のIHI)が製造した国産車両です。

海軍徳山練炭製造所に納入され、1934年に下工に払い下げられ、原動機実習での教材として使われたといいます。下工には昔、全長40メートルほどの線路が敷かれていたのです。

1950年ごろ、実習で使われるうちに動かなくなり、廃車の危機にあったそうですが、卒業生からの要望で学校の正門付近で展示されるようになったとのこと。

栗田さんは、SLが他の機関車に置き換えられ、内燃機関の実習をする必要がなくなったからではないかともみています。

「下工弁慶号」の名前はこの頃ついたといいますが、「名前の由来は調べても出てこず、今90歳くらいの卒業生に聞いても分かりませんでした」と栗田さんは話します。

弁慶号はその後、下工が創立60周年となった1981年や、70周年の1991年、笠戸事業所が75周年を迎えた1996年など、度々復活運転を果たしました。大きなブランクがあったため、最初は部品ごとに分解してから整備して、組み立て直すという修復作業がなされたそうです。

下松工業高校の開校60周年記念で復活運転する「下工弁慶号」=1981年10月、山口県下松市、下松べんけい号を愛する会提供
下松工業高校の開校60周年記念で復活運転する「下工弁慶号」=1981年10月、山口県下松市、下松べんけい号を愛する会提供

もう一度動かしたい

弁慶号の所有権は1991年、下工から同窓会の「下松工業会」に移されました。1997年に下松市に寄贈され、格納庫で保存され始めたということです。栗田さんらが「愛する会」を立ち上げたのは、2010年ごろのことでした。

1946年生まれの栗田さんは、小学校入学前に下松市に引っ越し、今も住んでいます。下工を卒業して化学工業メーカーで働きました。下松工業会の理事をしていた2009年、「下松から全国発信できることはないか」、「やっぱり弁慶号は走っていなければ」との思いから、再び復活運転をめざすための組織が有志で立ち上げられました。

最初は「走れ!!弁慶号プロジェクト準備会議」という名前でしたが、やはりもう一度動かすには相当な技術と手間、資金がいるもの。関係各所に協力を求めてみたものの、走らせることはかないませんでした。

2011年、「下松べんけい号を愛する会」に改称。地域おこしに主眼を移し、月に1度の意見交換や、祭りでの展示、小学生以下のスケッチで年賀状をつくるコンクールの開催が主な活動です。

下工出身者のみならず、思いに共感したSL好きなども集まり、会員は90人くらいにまでなりました。「『走らせないと意味はない』という思いは、皆持っているのではないでしょうか」と、栗田さんは夢を膨らませています。

「下工弁慶号」と、下松べんけい号を愛する会の会員たち。車両右側の左下が栗田さん=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影
「下工弁慶号」と、下松べんけい号を愛する会の会員たち。車両右側の左下が栗田さん=2021年3月29日、山口県下松市、高橋豪撮影 出典: 朝日新聞

「暫定」最後の運転

弁慶号は、まだ走れないという訳ではなさそうです。このことを確信したのは、最後に弁慶号が復活運転を果たした15年ほど前のエピソードを聞いたからでした。

2004年、弁慶号は下松市から三重県内へと貸し出されることになりました。発起人の中は、三重県いなべ市北勢町の住民たちもいました。その年は、地域を走る北勢線(三岐鉄道北勢線)が90周年を迎え、記念事業の目玉にと要望したとのことです。

終着駅の阿下喜(あげき)駅周辺の住民らが同じ頃立ち上げた「北勢線とまち育みを考える会(ASITA)」代表の安藤たみよさん(59)によると、同じ年に隣の愛知県である「愛・地球博」で観光客が増えることも見越して、客を呼び込もうということでした。

三岐鉄道北勢線そばの特設レールで復活運転をする「下工弁慶号」=2006年、三重県いなべ市、下松べんけい号を愛する会提供
三岐鉄道北勢線そばの特設レールで復活運転をする「下工弁慶号」=2006年、三重県いなべ市、下松べんけい号を愛する会提供

遠く山口県の下松市のSLに目を付けた理由は、線路幅が762ミリで同じであることを、鉄道マニアが教えてくれたからでした。安藤さんは「下松で高校生が走らせられていたなら修復できるはず」と考えていました。鉄道マニアの知識だけではどうにもなりませんでしたが、人が人を呼び、修復作業は進んでいったのです。

安藤さんの話によると、腐食していて穴が空いていたボイラーを直すためにSL好きなボイラー技士が協力。他にも近鉄で車両整備をしていた人が来てくれたり、町工場から部品が提供されたりしたそうです。その甲斐あって、労働基準監督署でのボイラーテストにも通りました。2006年3月、約800人が集まる中、白い煙を上げてレールを走りました。運転したのは、岐阜県から来たSLの元運転士でした。

復活運転をめぐっては、一部の自治体側との間で意見の食い違いもありました。それでも弁慶号が日の目を見たのは事実。下松と鉄道の結びつきが広く知れ渡った、歴史的な一日だったと言えるでしょう。

 

〈テツのまちからこんにちは(#テツこん)〉2021年5月でちょうど100周年を迎える、鉄道の全国最大級の生産拠点である山口県下松(くだまつ)市の日立製作所の笠戸事業所。山口に赴任した鉄道好きの記者が「鉄道のまち」で見聞きした出来事をレポートします。

今週のテツ語「線路の幅」
レールの間隔は「軌間(きかん)」と呼ばれ、幅に応じて広軌や狭軌といった種類があります。世界では、イギリスで鉄道発祥時に由来する1435ミリ(標準軌)を基準に、より広いか狭いかで呼び方が変わります。日本ではJR在来線など多くが1067ミリの狭軌であるため、新幹線や一部私鉄の1435ミリはそれに対応してむしろ広軌と呼ばれることも。三岐鉄道北勢線や弁慶号の762ミリは「特殊狭軌」と呼ばれ、国内でもほとんど見られなくなりました。

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