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連載

#17 テツのまちからこんにちは

地球の裏側で見た日立のSL 世界を飛び回った鉄道技師の思い出

ナイジェリアでは大統領専用列車を修理、韓国初の地下鉄も担当「品質向上」に捧げる

スーダンに輸出したディーゼル機関車と写る永田さん(右)=1964年、本人提供
スーダンに輸出したディーゼル機関車と写る永田さん(右)=1964年、本人提供

目次

5月1日で100周年を迎えた国内最大級の鉄道工場「日立製作所笠戸事業所」がある山口県下松市。笠戸事業所の元社員が子どもたちに理科の楽しさを伝えている団体「日立のぞみ会」の会長は、海外に輸出した車両の検査に携わってきました。品質向上のために世界中を飛び回り、一大輸出プロジェクトも指揮したという、1世紀続いてきた工場を体現する技術者人生。鉄道ファンの記者(25)が、「鉄道のまち」で見聞きした出来事をレポートします。(朝日新聞山口総局記者・高橋豪)

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#テツのまちからこんにちは
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アフリカを舞台に大活躍

「日立のぞみ会」と、笠戸事業所の元幹部の集まり「YKO(山口笠戸OB会)」の両方で会長を務めている永田久則さん(81)。35年以上の在職期間のうち、合計で13~14年は海外にいたといいます。

「おかげで世界中を回らせてもらいました」と、これまで聞いてきた国内の車両設計に関わってきた技術者とはひと味違った経験を語り始めました。

熊本県出身で、大学の機械科を卒業後に入社。まだ最初の新幹線が運行開始に向けて試験運転をしていた1962年のことでした。当時の笠戸工場での配属は、鉄道の車両や部品の保守点検などを行う検査部で、ディーゼルエンジンの担当になりました。

東京オリンピックが開かれた1964年。初めての出張先は、アフリカのスーダンでした。任務は、日立製作所がつくって輸出したディーゼル機関車のアフターサービス。「どこにあるかも知りませんでしたが、若気の至りで乗り切りました」

蒸気機関車の時代から、世界各地に車両を輸出していた日立。永田さんによると、当時はスーダンへディーゼル機関車や気動車の輸出を目指していたといいます。

しかし、旧宗主国のイギリスや、アメリカ、ベルギー製ばかりで、日立製はまだ実績を積まないと受注できない段階でした。そこで、日立はまず1両を無償提供して1年間稼働させることになり、笠戸工場が作ったエンジンの検査担当として永田さんが派遣されたのでした。

現地で撮った記念写真を手に、アフリカでの経験を語る永田さん=2021年4月22日、山口県下松市、高橋豪撮影
現地で撮った記念写真を手に、アフリカでの経験を語る永田さん=2021年4月22日、山口県下松市、高橋豪撮影

仕事場は砂漠のど真ん中

首都ハルツームからナイル川を北へ下ること約300キロの都市、アトバラにある鉄道機関区が仕事場でした。

そこは砂漠のど真ん中。エンジンの部品に砂粒が入り込んでしまわないよう、カバーで囲ったり、風が吹き込むようにしたりといった工夫をしたといいます。気温が40度を超えるのもしばしば。夏に線路を触ってやけどをしたこともあったそうです。

機関車は、1年間無事に走ることができました。その甲斐あって、ディーゼル機関車20両と、気動車3編成9両の受注につながりました。

気動車の納入、アフターサービスで数年後に再びスーダンに駐在した永田さん。ハルツームから伸びる幹線に投入され、それまで主流だったバスから徐々に客が流れてくるのを目の当たりにしました。

ディーゼル機関車の修理前の調査でまたスーダンに行った時のこと。帰り際にエンジン修理の案件を任され、ナイジェリアに飛びました。

検査を担当したのは大統領用の客車。「冷房の音がうるさい」とクレームが入ったからです。エンジンの振動が車体に伝わっていたのが原因と突き止めた永田さんは、その間にすき間を作って騒音を解消しました。

ナイジェリア国鉄の幹部づてで、大統領からの謝意を受け取ったそうです。

永田さんが海外出張で撮った写真。上段がナイジェリアとスーダン、下段は左からボリビア、東南アジア、米国にて
永田さんが海外出張で撮った写真。上段がナイジェリアとスーダン、下段は左からボリビア、東南アジア、米国にて

地球の裏側で見た日立のSL

検査の主任だった時には、ディーゼル機関車の車輪交換の指導要請を受け、南米ボリビアへ。高山病の症状が出ながらも、富士山頂より標高の高いところにある鉄道工場に詰めました。

その車両でアンデス山脈の奥地へ行った時に見た蒸気機関車には、「日立」の文字がありました。「インドでは日立のSLが走っていると聞いていましたが、ボリビアは知りませんでした。あの時は感激しましたね」

1974年に開通した韓国初の地下鉄、ソウル地下鉄1号線の車両の輸出でも、整備や検査を担当。最後の海外駐在は1982~88年で、アメリカ・アトランタの地下鉄車両を日立が大量受注する一大案件で、プロジェクトマネジャーを務めました。部品の調達や検査で米国中を回り、1987年の納入までやり通したのでした。

このほかにも、スリランカやタイ、台湾、ブラジルなどに滞在。米国からの帰国後は、笠戸工場で工場営業や納期管理、顧客対応をする技術部長に就任しました。国鉄の分割民営化で誕生したJR各社から、新車両の注文が殺到していて、特に大変な時期だったといいます。

1998年に退職。日立のぞみ会は、2011年の設立時から会長を務めました。今年3月まで営んだ人材派遣業のオフィスが会の活動場所でした。レジェンド級の技術者に話を聞くことができたのも、永田さんが団体を一つに束ねていたからこそでした。

日立製作所笠戸事業所=2017年3月5日、山口県下松市、朝日新聞社ヘリから
日立製作所笠戸事業所=2017年3月5日、山口県下松市、朝日新聞社ヘリから

「地道に頑張ったから」

100周年にあたって、「よくここまでやってこられたな」と話す永田さん。とりわけ、「鉄道発祥の地」英国に向けて高速鉄道車両をつくったことが感慨深いといいます。

永田さんには日々考えていることがあります。それは、日立の多くの工場が分社化されたり統合されたりする中で、なぜ笠戸事業所は続いてきたかです。

もちろん、鉄道車両という製品の特殊性と積み重ねた実績があったからというのはありますが、一番は「技術と営業が一緒になり、地道に頑張ったからじゃないでしょうか」と語ります。

蒸気機関車から新幹線、リニアモーターカー、数々の特急車両――。国内だけでなく海外でも親しまれる名車を生み続けてこられたのは、ここ下松に集まった技術者や職人が、その時代ごとに新しい工法や技を編み出したからです。

私が取材を通して知ることができたのはその一端にすぎませんが、興味は広がるばかりです。

「鉄道車両のサプライチェーンがここまで狭いエリアで完結しているのは世界的にも珍しい」

ある取材先が話していた言葉が印象に残っています。産業的にはそうですが、下松にはさらに、取り巻くファンやまちぐるみのイベント、鉄道にまつわる隠れたスポットなど、「テツのまち」と呼ぶにふさわしい物語がたくさんありました。

永田さんの今の目標は、笠戸事業所と鉄道産業を地域の宝としてより多くの人に知ってもらうことです。

元社員の思いも詰まった社史がまさにその役割を果たしそうで、現在編集が進んでいますが、ほかにも「100周年プロジェクト」は進んでいるとのこと。次なる動きに目が離せません。

 

〈テツのまちからこんにちは(#テツこん)〉2021年5月でちょうど100周年を迎えた、鉄道の全国最大級の生産拠点である山口県下松(くだまつ)市の日立製作所の笠戸事業所。山口に赴任した鉄道好きの記者が「鉄道のまち」で見聞きした出来事をレポートします。

今週のテツ語「リニアモーターカー」
リニアモーターとは、直線状のモーターという意味の和製英語。磁石の力で浮上させて走る乗り物全般を指しますが、日本では特にJR東海が開業を計画しているリニア中央新幹線向けの超電導リニアのことをいいます。最高時速は500キロほどをめざし、「L0系」と呼ばれる試験車両が山梨リニア実験線を走行中。2015年には最高時速603キロを記録し、「最も速い磁気浮上式鉄道」としてギネス世界記録に認定されました。その後笠戸事業所はL0系改良型試験車の先頭車両をつくり、2020年に試験走行が始まりました。1972年に登場した初の試験車両「ML100」も手がけています。

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