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「もう死ぬんだ…」漫画家・高浜寛を変えた熊本地震 作品で描く自立

「若い人たちの力になれる存在にならないといけない」

「ニュクスの角灯(ランタン)」 (リイド社) で、第24回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞した高浜寛さん。熊本地震の際、熊本市で被災しました
「ニュクスの角灯(ランタン)」 (リイド社) で、第24回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞した高浜寛さん。熊本地震の際、熊本市で被災しました

目次

19世紀の長崎とパリを描いた漫画「ニュクスの角灯(ランタン)」 (リイド社) で、第24回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞した高浜寛(たかはま・かん)さん。現在は出身地の熊本県天草市で漫画を描きながら生活しています。2016年4月、熊本地震の際は熊本市で被災しました。死を意識したあの日から、創作活動への変化はあったのか。当時の手記とともに、振り返ってもらいました。

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地元・熊本を襲った「震度7」

最初の地震の時は、近所の公園で鉄棒の上を歩いていました。パルクールの練習をしてたんですね。綱渡りをしたり、着地の瞬間に前転をして衝撃を逃す……みたいなことを夜中にこっそり練習してたんです。鉄棒の上を歩いていて「よし、おしまい」と思って、着地した時にすごい揺れが来ました。それとほとんど同時に、空が稲妻が走ったみたいに光るのを見ました。青白い感じで、バッって。

(中略)

私の家は家賃1万2000円で、熊本で一番ぼろいアパートだったんで、1回目の地震でもうぐっちゃぐちゃで危険な感じになってました。公園から猫の「しぃさん」だけ連れに帰ったんですが、建物は目に見えて傾いてるし、玄関のドアを開けたらもう部屋がめちゃくちゃで。

(中略)

しぃさんを持って、急いで脱出して、揺れが収まるかどうか外で様子を見てたんですけど、全然収まらないし、アパートの人たちもみんな建物の中に入ろうとしなかったので、「こりゃいかんわ」となって、とりあえず市内にある母の家に車で向かったんです。
トーチWeb 体験記より
<2016年4月14日木曜日、午後9時26分、熊本県で震度7の地震が起きました。当時、熊本市で暮らしていた高浜さんは、近所の公園で揺れに遭遇。その様子を、作品を連載するリイド社のトーチwebに記しました>

被災した当日、前震で家が壊れたときはそこまでのショックがなくて、古いし壊れて当然だろうなと思いましたね。母の家で本震に遭い、築30年くらいのマンションが住めなくなるくらいボロボロになって初めて実感がわきました。

寝ているときに大きな揺れがあって、押し入れから水が流れてきたり、天井からパラパラ粉が落ちてきたりしました。ぐにゃぐにゃ揺れている中で避難をしたら、駐車場のアスファルトが、足元から割れていきました。

そのあと、新しい家が見つかるまでの約1カ月は車中泊になりました。メンタルは結構やられましたね。いつ地震が収まるか分からないし、電気もガスもいつ復旧するか分からない。お風呂にも入れず、気持ちはずっと重い感じでした。

死を意識して強くなった気持ち

私、東北の震災の時も東京にいたんですが、その時よりも怖かったです。たぶん夜だったのと、目の前で地面が割れてきてるっていうのが大きいと思うけど、最初の日だけじゃなくて、その後何日間にも渡って何回も何回もすごいのが来ましたから。最初の一番大きいのが震度7でしたけど、東京で経験したのと同じかそれ以上の震度6とか5とかが何回も何回も何回も何回も何回も何回も……どんどんどんどん来て。もう死ぬなってみんな思った。
トーチWeb 体験記より

<2011年の東日本大震災では、仕事で訪れていた東京で揺れに遭いました。電車が止まり、4駅先のホテルまで歩いて戻りましたが、熊本には帰る家がある「訪問者」です。被災した当事者という意識はありませんでした。熊本地震で初めて大きな揺れを何度も経験し、「死」を意識したといいます>

もう死ぬんだと思ったとき、視界がクリアになって、突き抜けた感じになりました。気持ちが強くなったというか。

残された時間があとどれくらいかわからないけど、その間のことをしっかり覚えていようと思いました。弱い人から先に救助したり、パニックになっている人のお世話をしたり、”そのとき”が来るまで自分のできることを淡々とこなして、この空の美しさや生きていたことを強く記憶しておこうと思ったんです。

若い人の力になりたい

漫画なんか描けないし描いてる場合じゃないなっていう気持ちにもなりましたが、少し落ち着いて、今連載している『ニュクスの角灯』に向き合ってみると、不幸があった暗い少女が、西洋の文物を通して世界に触れ、それぞれの過去を持った人々と触れ合う中で良い方に変わっていく、そういう話なので、今こそ描くべきだと思って、休載せずに続けることに決めました。
トーチWeb 体験記より

<一時は「死」が浮かんだ高浜さんでしたが、車で生活しながら漫画は描き続けました。手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した「ニュクスの角灯」は、被災をしながら描いた作品です。震災を経て、作品にも変化がありました>

今までの作品と大きく違う点は、若い人を導くキャラクターが以前よりも出てくるようになったことです。

「ニュクスの角灯」では、お慶さんや岩爺、ポーリーヌをキャラクターとして出すことにはしていましたが、震災後、いきいきと動き始めました。ニーズも感じて、登場シーンやセリフを増やしました。

背景には、私が以前より自立したことがあります。自立したことによって、若い人たちの力になれる存在にならないといけないと思うようになりました。

「ニュクスの角灯」の原画。左下が「岩爺」©️高浜寛
「ニュクスの角灯」の原画。左下が「岩爺」©️高浜寛

普段の生活だったら、親がいたり、パートナーがいたり、仕事の同僚がいたり、誰かしら頼れる人がいると思いますが、震災のときはその人たちのメンタルがグラグラになって、「誰に頼ればいいの?」ととても絶望的な感じになりました。

誰も手を差し伸べてくれない。誰も私のことを見る余裕がない。そうなったときに、どうやって自分の足で立って、するべきことを見つけて、一つ一つこなして、疲れたら休む判断をするのか。それまで幼かった部分がわかって、どう自分のメンテナンスをしていくかを学びました。

今までは、誰かが支えてくれるとか、誰かが何かしてくれることを期待していたのだと思います。震災の後はとにかく、自分の足で立って、稼いで、新しい家を維持して、みんなに余裕がなくても1人で生きてみようと思いました。そうするうちに強くなったんです。

震災で意識した「死」についても、これからどんどん作品に反映されていくと思います。「ニュクスの角灯」では長崎の原爆を描いたり、主人公が死んだりはありましたが、もっともっと人の死について考える作品を準備しているところです。

ニュクスの角灯
「ニュクスの角灯」 1878(明治11)年、長崎。西南戦争で親を亡くした美世(みよ)は、道具屋「蛮(ばん)」で奉公を始める。ドレス、ミシン、小説、幻灯機……店主・小浦百年(ももとし)がパリ万博で仕入れてきた西洋の文物を通じ、美世は“世界”への憧れを抱くようになり……。文明開化の最前線にあった長崎とジャポニスムの最盛期を迎えつつあるパリを舞台に描く感動の物語。
©️高浜寛/リイド社ーー出典・朝日新聞デジタル
「ニュクスの角灯」 第24回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞特集
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【インタビュー】熊本の山奥からマンガ大賞受賞『ニュクスの角灯』高浜 寛インタビュー。テレワーク歴15年の漫画家の仕事 出典: bouncy / バウンシー

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