連載
#6 平成炎上史
「ネトウヨVSパヨク」なぜ生まれた? 「国の重大事」への現実逃避
平成の「ネット炎上」の代名詞といえる「ネトウヨVSパヨク」論争――。様々な政治的イシュー(争点)をめぐって、ネットユーザーが互いのことを「ネトウヨ」「パヨク」と罵倒し合う特異な現象は、なぜ生まれたのか? 好き嫌いを明言することで生まれる「帰属意識」への依存。プライベートの問題を忘れるため、政治的な闘争に夢中になる不毛さ。「ネトウヨVSパヨク」論争の起源を探る。(評論家、著述家・真鍋厚)
「ネトウヨVSパヨク」論争において対話の機会はほとんどないに等しく、敵対する勢力を「腐(くさ)す」ことだけに熱中し、「真実の追求」よりも「自己正当化」にきゅうきゅうとする。
「ネトウヨ」はいわゆる国粋主義で保守的とされ、「パヨク」は反日的でリベラル色が強いとされるが、そもそも人を攻撃するための「侮蔑語」であるため定義付けは困難だ。
「ネトウヨ」の語源である「ネット右翼」は1990年代末頃に登場し、2000年代以降マスメディアでも使われるようになった。「ネトウヨ」の対義語である「パヨク」はやや遅れて2015年に作られたもので、ほどなくネットスラングとしての地位を得た。どちらもネット空間を主な「住処(すみか)」にしている、いわば「刹那(せつな)的なデジタルコミュニティー」である。
「ネトウヨVSパヨク」論争のような、「不正に対する怒り」や「被害者意識」を共通項にしてつながる「刹那的なデジタルコミュニティー」は、インターネット上において、泡のように生まれては消えることを繰り返してきた。その動きは、平成の30年の間に進んだわたしたちの社会のコミュニケーション環境の変化と密接に関係している。
ジャーナリストのジェイミー・バートレットは「再部族化行為(リ・トライバリゼーション)」という視点で、「刹那的なデジタルコミュニティー」が次々と現れる背景について説明を試みている。
それは、人間が群がって「仲間内」を作るというごく自然な振る舞いと、リアルタイムで押し寄せる「過剰な情報」と、心をかき乱す「過剰な接続」という、物理的に限界のないネット空間の特性が合わさった「新しい集団」である。
これまでわたしたちは、数百万、数千万単位の見ず知らずの人々を同胞とみなす国民国家を前提に生きていたが、ここに来て自分の階層やジェンダー、思想・信条などに基づく怒りや被害感情で急速に集団化し、国民の分断化・細分化が進行する「部族社会」へと退行しているというのだ。
しかも、この「部族」たちはソーシャルメディアをはじめとするネットのお陰ですぐに同族を発見し、交流を深めていく。
わたしたちを「再部族化行為」に駆り立てているのは、誰もが不安定な自己を受け入れざるを得ない「アイデンティティーの危機」である。
伝統的な社会が衰退し、政治に対する信頼が失われ、市場が不公正なものに感じられ、価値の多様化が恐怖を呼び覚ます……そして、人とモノの流動性がものすごい早さで高まることによって、わたしたちは、人類史上最も混乱した状態を経験することになった。
ネット上で繰り広げられる主張も立場も異なる相手を〝蔑称〟で片付ける「陰湿な政治ゲーム」に参加することは、社会学者のジョック・ヤングが指摘するように「自己と他者の本質をでっちあげてアイデンティティーを強化する」面がある(ジョック・ヤング、青木秀男・伊藤泰郎・岸政彦・村澤真保呂訳『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』洛北出版)。
例えば、自己を「普通の感覚の日本人」と規定する場合、だいたいにおいて「普通の感覚」という属性と、「日本人」というカテゴリーの転倒が起こり、「普通の感覚(の持ち主)」が「日本人」となる。そして、それ以外は「日本人としてあるまじきもの」と徹底的に排除される。
もちろん、「普通の感覚」の意味するところはいかようにも定義される空っぽなものでしかない。しかし、それが手っ取り早く「日本人」としての「帰属感」を充足させ、「薄ぼんやりとしたアイデンティティー」に輪郭を与えてしまうのだ。
分かりやすい政治的イシューの一つが沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設問題であろう。
関連のニュースがアップされるYahoo!などのポータルサイトのコメント欄や、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディア上では、反対派と賛成派が今も意見を戦わせている。
「ネトウヨVSパヨク」という閉鎖的な世界の中での盛り上がりは、その多くが罵倒や嘲笑に分類されるような言葉の応酬に終始していると言わざるを得ない。
辺野古移設に関連する出来事(例えば2016年10月に起こった大阪府警所属の機動隊員の「土人」発言など)がある度に、極めて短時間の間にネット上で数千人あるいは数万人規模の膨大な「罵詈(ばり)雑言のキャッチボール」が交わされてしまう。
当然、そこには、「まっとうなやり取り」も少しは含まれてはいるものの、意見を表明しただけで「不謹慎狩り」と似たような同じ構図でタレントをたたくなど、ネットユーザーからの攻撃的な書き込みが圧倒的多数を占める。
つまり「冷静な議論」よりも「感情の発露」が優先される場と化しているのだ。
はたから見れば、「なんとなく右」な人々と、「なんとなく左」な人々がモグラたたきのように双方を徹底的に攻撃しているだけに映るのである。
それはほとんど、プレーヤーとオーディエンスが共犯になったサイバー・コロシアムの様相を呈している。
日本人なら考えなければならないような事柄について、ネット上で発言・シェア(共有)・いいね(賛意)を表現すれば、「日本人としてのアイデンティティーらしきもの」が立ち上がるように感じられる。そんな出口のないトートロージー(同語反復)のようなものが潜在している。
いわば、身近な人間関係や今の社会的な地位では、安心感や自己肯定感を得ることがかなわず、不平や不満を伝える方法が思いつかないため、「国家レベルの重大事」という大舞台における端役を演じることによって、自分の存在を一足飛びに「解決」しようとするメカニズムが働いている。これは右も左も関係がない。
アイデンティティーの危機が常態化した現代では、色々なしがらみがある上に、手間と時間のかかる人間関係で得られる「帰属感」よりも、オンラインで簡便にアクセスでき「好悪」を明言できる「帰属感」の方が優勢になりやすい。
手軽に意思表明することが可能で、忠誠心と結束感が味わえる「刹那的なデジタルコミュニティー」の魅力は大きい。
ただこれは仮初めの「帰属感」に過ぎず、一時の高揚によるものでしかないのが難で、繰り返し確認することが要求される。「強迫」(オブセッション)として現れざるを得ないのだ。つまり、依存である。
そもそも、政治家や官僚、ましてや自衛隊員でもないのに、四六時中スマートフォンとにらめっこをしながら、「自分の私生活上の問題よりも国の安全保障問題が気になる」という熱中の仕方は相当におかしなことである。
これは「個人的不安の〝外患内憂(がいかんないゆう)〟化」といえるものだろう。「外患内憂」は、国内における心配事と外国から受ける心配事が山積していることを指す。
かつては家族や地域、職場などが、心理的なストレスをやわらげる緩衝地帯としての厚みを持っていた。それが今は、同心円状に広がっていた社会の共同体的ネットワークが崩壊し、むきだしの個人が「国家や市場が仕掛ける恐怖や不安をあおるマーケティング」に引っ掛かりやすくなっているのだ。
換言すれば、政治的な闘争に夢中になっている間は「私生活上の問題」から逃避することができる――。
わたしたちは、アイデンティティーの危機を治療する特効薬がないことを認めた上で、まず自分の身の回りにある「本当に向き合わなければならない問題」に対処する必要がある。
もちろん、選挙をはじめとする政治全般に対する関心が重要であることは間違いないが、スマホを片手にした時にタイムラインに表示される政治的な闘争への過剰反応は、自らの不安を埋め合わせるための「オルタナティブ(代替物)」として機能した結果の産物ではないのか、という問いかけが大きな分かれ目となるように思われる。
そのことに敏感であることしかこの苦境を乗り越えることはできないだろう。
わたしたちは「ネット炎上」の傍観者も含めて、とっくにその不毛さに気付いているのではないか?
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