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連載

#12 平成炎上史

不倫バッシング「起源」となった事件 不安忘れる、はかないつながり

不祥事に対するバッシングをかき立てるものとは? ※画像はイメージです
不祥事に対するバッシングをかき立てるものとは? ※画像はイメージです

目次

平成から令和になって不倫騒動、違法薬物による逮捕劇など、不祥事を起こしたタレントや芸能人に対する風当たりは強くなる一方だ。とりわけソーシャルメディアやネットニュースのコメント欄などに書き込まれ、多数の人々に共有されるバッシングの嵐は、まるで年中行事のような様相を呈し、特段珍しいものではなくなってしまった。なぜこのような不寛容を絵に描いた状況がもたらされるに至ったのか。その転換点は平成に起こったある事件に見いだすことができるだろう。(評論家、著述家・真鍋厚)

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許されなかった不倫の自虐ネタ

2013年(平成25年)、元モーニング娘の矢口真里が不倫相手の男性と会っていたところを当時の夫に見つかったことが女性週刊誌に報じられた。翌月にはレギュラー番組やCMが打ち切られ、メディアへの露出がゼロになった。

芸能活動に復帰するまで1年と約半年を要することとなったが、事態はこれで収束はしなかった。2016年3月に放映された日清食品のカップヌードルのCMに抗議が殺到したのだ。内容は「OBAKA’s UNIVERSITY」という架空の大学を舞台にしたもので、ビートたけしが学長を務めており、小林幸子や畑正憲などが先生役で出演していた。矢口は、危機管理の権威とされる心理学部の准教授役で、大勢の生徒を前に「二兎追うものは、一兎をも得ず」と力説し、女子生徒らに「これ、実体験だよね?」と突っ込まれるシーンを担当した。

不倫騒動を用いた自虐ネタといえるものであったが、日清はCMを中止し、ホームページにおわびを掲載。文面には「皆様に、ご不快な思いを感じさせる表現がありましたことを、深くおわび申し上げます」とあった。

不倫騒動を用いた自虐ネタへのバッシングによってCMは中止になった ※画像はイメージです
不倫騒動を用いた自虐ネタへのバッシングによってCMは中止になった ※画像はイメージです

ストレスのはけ口としての「健全化への欲求」

この不倫騒動の前後辺りから、不祥事を起こしたタレントや芸能人を「血祭りに上げる」ことに執念を燃やす声が目立ちはじめ、「あらゆるコンプライアンス違反」が重大犯罪であるかのような取り扱いに様変わりしていった。

薬物事犯はその最たるものだ。歌手のASKA、元プロ野球選手でタレントの清原和博、歌手でタレントの田代まさし、ミュージシャンでタレントのピエール瀧……ここには「逸脱者」「逸脱行為」への過剰なまでの拒否反応と、そのような人物を徹底的に糾弾して排除することによる「健全化への欲求」がある。

「健全化への欲求」は、「コンプライアンスへの従属」と表裏一体であるため、分かりやすく言えば「車が走っていない横断歩道で赤信号を守るストレス」のはけ口として、「赤信号を渡った者に対するペナルティー(懲罰)衝動」の代理表現となる。

過剰な糾弾の背景には、自分はルールを守っているのに、他の誰かが守らないことへのストレスがあるという ※画像はイメージです
過剰な糾弾の背景には、自分はルールを守っているのに、他の誰かが守らないことへのストレスがあるという ※画像はイメージです

〝抜け駆け〟への疑心暗鬼

マスコミの異常な報道合戦と並行して、ソーシャルメディアやネットニュースのコメント欄などで「裏切り」と「反省」といった文言で埋め尽くされていった。

このような状況は、結局のところ、自身の「健全さ」が「逸脱者そのもの」へのネットリンチによってでしか価値のある有意義なものには思えず、コンプライアンスに順応した「健全さ」が幸福のよすがになっているように感じられないからだ。

そもそも「健全化への欲求」の深層には、「誰もが平等になると、小さな違いがやたらと気になる」という「平等のパラドックス」がある。自分の知らないところで誰かが〝抜け駆け〟〝良い思い〟をしていることへの疑心暗鬼を常に抱えなくてはならない。

「健全化への欲求」の深層には、「誰もが平等になると、小さな違いがやたらと気になる」心理があるという ※画像はイメージです
「健全化への欲求」の深層には、「誰もが平等になると、小さな違いがやたらと気になる」心理があるという ※画像はイメージです

追い詰められた自尊心

「平等のパラドックス」が進む状況からは、人々が何に自尊心を求めているのかが浮かび上がってくる。

「後期近代の世界を生き延びるためには、相当な努力、自己統制、抑制が必要である」と言ったのは社会学者のジョック・ヤングだが、これは「倹約と浪費」「禁欲と享楽」という緊張状態をうまく立ち回る精神力と言い換えられる。

要するに、そのようなライフスタイルを選び取らなければならないストレスフルな社会では、「自分たちが法的に(あるいは道徳的に)クリーン」であるという事実のみからしか、自尊心をくみ出すことができないほどに追い詰められているともいえるだろう。

二項対立で分けられるうちの優位な側にいる「包摂された」市民の一日を仮定してみよう。通勤時には渋滞し、仕事日の労働時間は徐々に増え、住宅費と住宅ローンの返済は果たしなく続いて足枷となり、家族を養うには共働きが必要で、女性がキャリアを積みあげると出産が遅れ、妊娠可能期間と不妊に怖れを抱き、毎日混雑した街を横断して子どもを学校へ見送り、地域とコミュニティは崩壊し、二人のキャリアとの子どもたちの一日の時間をやりくりし、子どもと過ごす時間は足りず、子どもは知らないうちに成長し、それを見逃すことを心配し、過酷な労働の合間にアル中の快楽に浸ることに心惹かれつつも脅える。
ジョック・ヤング著、木下ちがや訳『後期近代の眩暈 排除から過剰包摂へ』(青土社)

ネット上で求められた「脅威の芽を摘むこと」

わたしたちは、不安定な社会において「自己管理能力の喪失、尊厳が失われる可能性」に絶えず付きまとわれながら、一方で、「何かに心をわずらわされたりしない充足や憩い」を切実に求めている。

そこには、自分や自分に近い誰かが「充足や憩い」の手段として「不道徳なもの」「法を破るもの」を選んでしまう可能性が織り込まれている。だが、不思議なことにその可能性はほとんど考慮されていないようである。

「薬物」や「性」をめぐる問題は、単なる嫉妬の表れである以上に、幸福感と関連の深い「自己解放」の機会の喪失が根本にある。

「感情や思考の解放」は、信頼に基づく豊かな人間関係がその役目を担うことが多い。瞑想(めいそう)のような長い時間をかけた修練で得られる種類のものもあるが、基本的に人は「利害関係を超えた誰かとつながることで癒やされる」存在である。

しかし、そのようなわたしたちの本質的な困難に関わる社会課題と向き合うよりも、目の前の「逸脱者」「逸脱行為」に何もリアクションをしないことの方が無責任であるように思えるのである――「逸脱」のメッセージは「抑制」の反対物であり、それを見過ごせば自らの精神衛生にも悪影響が及ぶ――と。

前述のカップヌードルのCMは、「逸脱」を是とするメッセージとして解釈され、テレビの視聴者だけでなく、ネット上でも「脅威の芽を摘むこと」が要請されたのだ。

バッシングはネット上でも激しく繰り返されていく ※画像はイメージです
バッシングはネット上でも激しく繰り返されていく ※画像はイメージです

『一九八四年』に見る「2分間憎悪」

わたしたちはどうやら、電脳空間において悪魔はらいの儀式をおこなうことで、「モラルハザード」(倫理観の欠如)を一掃しようとしているかのようである。

ジョージ・オーウェルの長編小説『一九八四年』に、「2分間憎悪(Two Minutes Hate)」という行事が出てくる。

小説の舞台である全体主義国家のオセアニアでは、党員たちは毎日同じ時間にホールに集合し、巨大なテレスクリーンの前に座って、人民の敵であるエマニュエル・ゴールドスタインや敵国であるユーラシアの軍隊などの映像にむけて、思い付く限りの怒りや非難の声を投げ付けなければならない。

ゴールドスタインは、敵国の息がかかった反逆者であり、党に対する批判や、言論の自由などが許されない状況への気付きを訴えるのだが、それらの言葉は大勢の党員たちからの怒声や罵声によって打ち消される……要するに、この行事によって一人ひとりの党員が党への忠誠を目にみえる形で示せなければならないのである。

『一九八四年』の「2分間憎悪」は、党への忠誠を目にみえる形で示す様が描かれた ※画像はイメージです
『一九八四年』の「2分間憎悪」は、党への忠誠を目にみえる形で示す様が描かれた ※画像はイメージです

ネットリンチで「辛うじて横のつながりを結ぶ」

皮肉なことに、わたしたちは、思想警察などが存在しない時代に生きながら、誰に強制されるわけでもないにも関わらず、巨大なテレスクリーンの代わりに、スマホという小さなテレスクリーンに向かって、人民の敵ならぬ「偶像としての逸脱者たち」に呪詛(じゅそ)を吐き、嘲笑を浴びせては、「相当な努力、自己統制、抑制が必要」な日常をやり過ごそうとしているかのようにみえる。

それは、誰が敵かを指示する国家権力の意図などとはまったく無関係に、「ネットユーザーが自発的におこなう『2分間憎悪』」そのものである。

わたしたちは、スマホを通じて恐らく無意識に「2分間憎悪」の儀式を執り行っている。「偶像としての逸脱者たち」をストーキングして制裁を加えることによって、彼あるいは彼女たちが表舞台から立ち去る悲劇の観客となることによって、「この世界における地位というものが、誰にとっても盤石なものではない」ことを確認し、それゆえスリルのあるエンターテインメントとして消費することができる。

それは、メディアスクラムとネットリンチによって人気者とその追放に関する寸劇が演じられることにより、わたしたちが何者かと共通の感情体験を得て「辛うじて横のつながりを結ぶ」イベントのようである。

だが、それは一過性の「はかないつながり」に過ぎず、いわば自己の不安を忘れるための空騒ぎだ。

しかも、ここには自分たちが模範的なマジョリティーで「優位な側」にあることを強く実感したいという度し難い欲望がある。それは前出のように、身近な人々の多くが〝抜け駆け〟〝良い思い〟をしていたら、「自己統制」に躍起になっている自分だけが馬鹿を見る恐れの裏返しでしかない。

このような非常に危ういバランスの上に、わたしたちの自尊心は保たれているのである。

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