連載
#4 平成炎上史
「不謹慎狩り」の犯人は? 戦時中にあった「ネット世間」の原型
平成も終わりに差し掛かった平成28年(2016年)に発生した「熊本地震」では、被災地への支援を公言した有名人らに対するバッシング行為が相次いだ。古くは戦時中にも見られた「不謹慎狩り」が今、ネット空間において不安と不満の連鎖を生んでいる。不安定な社会のフラストレーションを解消する「コスパの良いゲーム」を、私たちはいつまで続けるのか。「不謹慎狩り」の起源を振り返る。(評論家、著述家・真鍋厚)
現在、大きな自然災害が起こる度にネット上で沸き上がるようになり、著名人はもちろんのこと一般人も対象となっている「不謹慎狩り」。中でも熊本地震は、「不謹慎狩り」が注目された最初の大災害として記憶されている。
例えば、被災地に義援金を送ったタレントが、その金額を明らかにしてソーシャルメディアに投稿した途端、「偽善」「売名」などとの批判にさらされ、歌手が非常時に必要なもの一式を示したイラストを、自撮りの写真付きでソーシャルメディアに投稿すると、それにも「売名」などとの批判が押し寄せた。
さらには、震災で家が全壊し、途方に暮れた状況を涙ながらにソーシャルメディアに投稿したタレントに対しても、そのような発言自体が自己アピールと断罪され、誹謗(ひぼう)中傷のコメントが相次いだ。
一方、震災とまったく関係がないにもかかわらず、女優が友人たちと笑顔で写っている画像を投稿しただけで、「不謹慎」の大合唱に見舞われ削除に追い込まれた。
『人間失格』にある、主人公の男性がヒモのような生活を送っていることに対し、悪友が「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言い、思わず男性が「世間というのは、君じゃないか」とのどまで出かかるくだりである。
このやりとりを読んでもまったく古さを感じないどころか、昨今ソーシャルメディアで放火魔よろしく暗躍する炎上の担い手たちの、寒々とした心根を浮き彫りにする名文として受け入れることができる。
つまり、「世間」という主語が、発信者個人の立ち位置を煙(けむ)に巻く、いわば「責任主体の拡散装置」として機能しているのだ。そして、オンライン上でのコミュニケーションが匿名性や不可視性が、そのような振る舞いを後押ししている様が見えてくる。
対面ではあり得ない恥知らずな言動へのハードルが下がってしまうことを、心理学者のジョン・スラーは「有毒性脱抑制」と名付けたが、このような効果と相まって「責任主体の拡散」がより一層増幅されるのである。
わたしたちの社会は、かつてのような伝統的な共同体が形骸化する一方にある。その半面、既存の人的ネットワークの束縛を甘受することで得られた〝見返り〟(「出世」や「生活の安定」が分かりやすい例)が失われつつあり、いくら「世間」のことに心を砕いたところで「労多くして功少なし」となる。
個々人が内面化した「世間」というモノサシのメリットよりもデメリットが上回り、「身動きが取りづらい」「不自由で不愉快な感じ」が澱(おり)のようにたまり精神を濁らせる。
だから、自分が「周りをうかがって我慢していること」や「やりたくてもできないこと」を「誰かがやっていること」に憤懣(ふんまん)や嫉妬を抱きやすくなるのだ。
「世間」を振りかざして有名人などをたたくことは「娯楽の一種」であり、現実に何がしかのインパクトを与えられることで手軽に達成感が得られる――「非常時」というマジックワードは、今や誰にとっても相手の言動を封じるための大義名分だ――しかし、炎上騒動に喜々として加わろうとするネットユーザーの多くは、社会的なつながりが乏しいがゆえに不安と不満の感情を絶えずため込むような状況にあり、次なるスペクタクルに乗り遅れまいとスマートフォンの画面から離れることを困難にしている。負の連鎖である。
日本におけるソーシャルメディアの世界は、無数の「ネット世間」が複雑に絡み合うジャングルであり、日々のフラストレーションをうまく処理できない環境下に置かれた人々にとって、「親指を動かすだけでガス抜きができるコスパの良いゲーム」と化しているのだ。
「不謹慎狩り」はそのようなゲームのうちの一つに過ぎない。だが、よく目を凝らして周りを見てほしい。
平成のおよそ30年の間に、人と人が共同体によって支え合うソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が枯れ草となって燃え尽き、ちょっとした見込み違いのためにホームレス状態に転落しかねない悪夢のような状況が出現している。
社会は焼け野原同然となり、わたしたちのほとんどは表面上、何の問題もなく見えても、実は被災地に住んでいるも同然となっているのだ。
一体誰がこんな世界にしたのか?
わかりやすい犯人を見つけることは難しいが、わたしたち一人ひとりにも良かれあしかれ責任がある。しかし、それは当事者として生きる可能性を意味している。「コスパの良いゲーム」を止める決断ができるのも、わたしたちに他ならないのだから。
わたしたちは、煌々(こうこう)と闇を照らす画面の外の現実こそ直視しなければならない。
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