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「得意だけでも武器だ」 大人になって発達障害と知った男性から君へ
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大人になってから発達障害の診断を受け、当事者を支援するNPO法人を立ち上げた男性がいます。10日に渋谷で開かれる10代に向けたトークイベントの発起人、さいたま市の池田誠さん(41)です。子どもの頃から落ち着きがなかったといいますが、自覚症状はゼロでした。そんな池田さんが若い人たちに伝えたいことを聞きました。
池田さんは現在、医療系の会社経営に携わる一方、6月に立ち上げたNPO法人「AVENGE OF MISFITS」の代表として、発達障害の子の親御さんや企業経営者からの相談を受けています。当事者のトークイベントも開いています。
池田さんには、発達障害で悩んでいる10代に伝えたいことがあります。
「5科目すべてをできなくても、得意なこと、興味があることを磨いてほしい。親はバランス良くやれと言うかもしれませんが、『武器』を持っている方が社会に出たときにスタートダッシュできると思います」
「逃げ道があれば、逃げていい。私も中学時代に逃げたり、意見を言える強さがほしかった。学校に行けずに家にいる子は、不安もあるかもしれません。でも、今はパソコンで何でも表現できます。そこから将来の『武器』が見つかるかもしれません」
池田さん自身は2016年4月、38歳の時にADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断されました。妻が医師に「発達障害の疑いがあるのでは」と相談したことがきっかけです。
妻や同僚からは、「空気が読めない」「頼まれごとをすぐ忘れる」と指摘されることはありましたが、自覚はありませんでした。
経営者としての仕事は難なくこなしている自信はありました。周囲から発達障害を疑われても、「能力や人格に疑いが持たれているんじゃないか。仕事はこなしているんだから、少しくらい目をつぶってくれと思っていた」といいます。
当時、池田さんの会社が飲食店を立ち上げ、ホールスタッフとして働いていました。ですが、もともとマルチタスクが苦手だった池田さん。オーダーを受けても、ほかの客に呼ばれるとオーダーを忘れてしまうというミスもありました。
しかし人手が足りず、向いていない仕事でしたが、対応するしかありませんでした。連日のハードワークもあり、ある朝突然、起きられなくなったといいます。病院では、うつ病と診断されました。「今思えば、うつ病は発達障害の『二次障害』だったと思います」
ADHDの診断を受けてから、インターネットや本で勉強するようになったという池田さん。幼少期の記憶をたどると、思い当たる節がありました。
池田さんは、小学校低学年のころから落ち着きがなかったといいます。授業中に歩き回ることはなくても、後ろを向いて友達に話しかけてばかりいて、しまいには教壇の横に机を並べられ、授業を受けさせられていたそうです。小学5年生くらいまでは先生の横が池田さんの定位置でした。
片付けも苦手で、「学期末になると、プリントが引き出しの3分の2をしめていて、教科書が入りませんでした」。カバンの中もプリントがぐしゃっとなっていた状態だったそうです。
自分の意見をうまく伝えられないこともありました。
中学生になると、「カッコつけたい」という思いから不良グループと仲良くなりました。不良の友達から「おもしろいことをやれ」と言われ、机の上に椅子を置いて座って授業妨害したことも。「本心ではやりたくなかった」と振り返ります。
その結果、教師からは体罰を受け、家に「学校での態度がひどい」と連絡を入れられました。父親からも「恥をかかすな」と暴力を受けていたといいます。
父親は不良の友達にも注意することがあり、そのことがきっかけで、友達からも殴られたり蹴られたりしていたという池田さん。それでも、嫌われることが怖くて仲間から外れなかったといいます。
「今思えば、父にも教師にも不良グループにも、きちんと自分の意見を言えば良かったんですけどね……」
そんな中学時代を過ごした池田さんですが、高校に進むとラグビーに打ち込みました。卒業後はとび職に就きましたが、「アイデアで勝負する人間になりたい」と2年後に大学進学を決意。半年間塾に通って35だった偏差値を65まで伸ばし、都内の私立大学に合格しました。
当時、続々とIT関連のベンチャーが設立されていました。会社を立ち上げるということは、まさに「アイデアで勝負する」ということです。池田さんも起業に憧れ、大学では起業の勉強に打ち込みました。通常の授業はあまり頭に入りませんでしたが、明確な目標に向かい、まっすぐ集中できたといいます。
在学中に派遣会社を立ち上げ、大学は中退しました。しかし、会社は資金難で解散。まともに就職活動をした経験はなく、その後は派遣会社に登録し、職を転々としたそうです。
現在の会社の経営に携わるようになったのは、知人から声をかけられたことがきっかけでした。苦手な仕事を無理してうつ病になってしまったとはいえ、経営の仕事は自分に合っているといいます。「起業の経験があったから、運が良かった」と話します。
興味があることを追求したから、チャンスがやってきた池田さん。だからこそ、若い人には何か一つでも得意分野を持ってほしいと話します。「社会に出たら、何か一つ光っている方が活躍できるんです」
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