IT・科学
おじさんの心に芽生えた「美少女」 VRがもたらす、もう一つの未来
バーチャルリアリティの世界で、50代のおじさんが期せずして16歳の美少女になってしまいました。そのとき、心の中に「少女」の気持ちが芽生える驚異の経験。外見とは、どれくらい人の心を縛っているのでしょうか。
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バーチャルリアリティの世界で、50代のおじさんが期せずして16歳の美少女になってしまいました。そのとき、心の中に「少女」の気持ちが芽生える驚異の経験。外見とは、どれくらい人の心を縛っているのでしょうか。
筆者、満56歳であります。分別盛り、世間的には定年も近い。恥ずかしながらこの年になって、心の中に「美少女」が宿っていることに気づきました。自分が美少女になって動くアプリケーションを使ったところ、今まで一切感じることのなかった少女の気持ちが心の中に生まれたのです。
最新のバーチャルリアリティー(仮想現実、VR)技術がもたらす圧倒的な没入感と表現力は、人の心の中にまで作用する力を持ち始めています。「おじさん」が「美少女の心」を感じるまでに何が起きたのか。専門家と一緒に考えてみました。
使用したVRアプリは「PlayAniMaker(プレイアニメーカー)」。ツイッターID「@MuRo_CG」さんの作、3Dモデルはハンドル名Tdaさんの製作です。テスト配布されているアプリで、商品ではありません。
本来の用途は名前の通りアニメを作ること。登場するのは初音ミク、日本のネット文化を代表するバーチャルシンガーです。PlayAniMakerを起動すると、ユーザーはミクのアバター(自分の分身となるキャラクター)の姿になってVR空間に登場、アバターの手や指を細かく動かすことができます。
空間内には、小さなフィギュア(これもミク)も出現します。その腕や脚、髪、頭の位置や傾きなどを、指でつまんで調整し、さまざまなポーズをとらせることができます。このフィギュアの方のミクが、3D CGアニメの「主役」です。
3Dのキャラクターを、まるで現実のフィギュアのように指で動かしてポーズを変え、1コマ1コマ撮影することで、簡単にアニメーションを作れるわけです。
3D CGはこれまで、平面のディスプレイを見ながらマウスを駆使し、3次元の座標を指定してやる必要がありました。非常に手間と根気のいる作業だったわけです。しかしPlayAniMakerは完全に直感的に操作できます。
使い方については、作者の@MuRo_CGさん自身が作ったわかりやすい解説動画(https://www.youtube.com/watch?v=VNWIl1dy8B0)がアップされています。
筆者も最初は、3Dアニメを作ろうとしてこのアプリを起動したのですが、ふと気がつくと、正面のスクリーンに映っているミクが、自分が動く通りに動いているではありませんか。
それを見て、何となく、アイドルの少女がグラビア撮影でするみたいに首を少しかしげ、ほおに軽く手を添えてみました。
「えっ?」
心臓が軽く跳ねました。何、このかわいらしさ。自分とは似ても似つかない愛らしい美少女が、リアルタイムに自分と同じ動きをする。
ちょっとポーズを変えてみます。首の傾きや顔の向き、手の動きなどはセンサーが瞬時に感知して、VR空間内のミクがほぼ自分の取った通りの姿勢をとります。
視線も変えることができます。表情は、視線の方向と顔の向きなどによって、くるくる自動的に変わります。要はプリセット(事前組み込み)なのですが、その変わり方が実に自然で多彩。ほとんど千変万化といっていいほどで、@MuRo_CGさんの力量と、Tdaさんのモデルのレベルの高さを痛感します。
コントローラーのボタンを押せば、自撮りもできます。撮影用のカメラは空間に浮かんでいるので、それを指でつまんで場所や向きを動かせば、自在なアングルで撮影できます。
こんな具合に、理屈はすぐ飲み込めました。それくらい直感的にできています。
「じゃ、こういうポーズで、この方向から撮ってみると、どんな感じに写るわけ?」
調子に乗って撮り続けます。視線は上目遣いよりやや下向きにした方が、自分好みのやわらかい表情が増す。顔の方向も、少しうつむき加減にして、軽く横を向くと、愛らしい表情が引き出されるようだ――。
解説書みたいに書いていますが、ミク=自分が思いもよらぬかわいい表情をすると、すかさずシャッターを切り、「今の、かわいかったぁ」とひとりごちながらコツをつかんでいくわけです。
逆に「もう少しかわいくできないかな?」とポーズや向きを変えるうち、元のかわいかった表情を再現できなくなることもあり、そういうときは無性に悔しくなります。生涯で、これほど「自撮り」に夢中になったのは間違いなく初めてでした。
いつの間にか、腰のあたりから動きが変わっています。いすに座って操作しているのですが、上半身を曲げたりくねらせたり、前に傾けたり、後ろに軽くのけぞったり…。事情を知らない家族や同僚が見たら、絶句するでしょう。
そう試行錯誤するうちに、決定的1枚のようなものが撮れたりするわけです。
「わ! これ、絶対かわいい!」
思わず声をあげるその口調はもはや半分女の子。それに気づいて、一瞬われに返ります。それは罪の意識、一種の背徳感でした。
筆者の子ども時代は、「男尊女卑」という言葉がまだ生きていました。筆者の母親などは「男子、厨房に入るべからず」なんてセリフを本当に言っていて、実際、子どものころ台所に立った記憶は、カップラーメンを作ったときくらいしかありません。
男の子の遊びと女の子の遊びも分かれていて、男児がおままごとをするなど、もちろんあり得ない。推奨される価値観も、男は「強い」「たくましい」「わんぱく」、女は「かわいい」「ひかえめ」「愛らしい」。
幸いに、といいますか、進学した共学の中高一貫校が、女子の方が圧倒的に成績が上だったことに加え、かざらない男女平等の伝統が根付いていて、男尊女卑の考え方など6年間の学校生活の中できれいにぬぐい去られました。
それでも、男が女の子のように愛らしく振る舞うとか、美しく着飾るといった習慣まではさすがにありませんでした。ましてや自分を「かわいい」と感じる機会など人生の中で一切なし。当然、そんな願望や欲求など、そもそも存在すら気づきませんでした。
それが……かわいいポーズを取ることに、かわいい写真を撮られることに、喜々として胸弾ませているこの気持ちは、どう考えても少女のそれです。半世紀以上生きてきて、文字通り初めての、そして驚天動地の発見でした。
自分の姿が美少女であるのなら、かわいく撮られたい、きれいに見られたいというのはたいへん自然な欲求として受け止められます。このとき私ははっきりと、男という外見が自分の心をきつくきつく縛っていたことに気づいたのでした。
外見の制約が取り払われたとき、心の制約もまた解き放たれる、もはやその事実を認めないわけにはいきません。
おじさん、心の中に女の子がいたんだよ。それもとびっきりの美少女が……
気づいてしまった以上、それは間違いなく自分の心の一部。これを失うことは、半身をもがれるに等しい――そう感じるのです。
すぐに連想するのは紀貫之です。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり(男も書く日記というものを、女の私も書きたいと思い、してみることにする)」という有名な書き出しで始まる「土佐日記」の作者です。
貫之はいうまでもなく男性ですが、女性を装って「かな文字」による日記をしたためました。「女もしてみむ」というくだりからして、「いや、あなた男でしょ」と突っ込みたくなるわけですが、いろいろ事情は複雑だったようです。
当時、男性は漢文を書くものとされていて、日記も当然、漢文で記されていました。当時の習慣では、男性の名で「かな文学」を記すのは難しい。そこで立場を女性ということにして、かなによる日記を書く大義名分を作った。この「土佐日記」が、後の女流文学に与えた影響は大きく、平安朝の華やかな日記文学の隆盛に貢献したともいわれています。
男性的な漢文文体から離れ、かなによる深々とした文章をしたためるとき、彼の心の中にはたおやかな女性が息づいていなかったでしょうか? でなければ、同時代や続く世代の女性たちが、それに影響を受けることなどあり得たでしょうか?
ツイッター界の一大インフルエンサーで、古典の教養豊富な編集者「たられば」さん(ツイッターID @tarareba722)に教えていただいたところによれば、「かな文字を使った散文による日本的な内面の創出」にこそ、「土佐日記」の歴史的な意義があるとのことでした。
かな文字と散文の組み合わせでこそ描き得る気持ちによって、同時代以降の人が日本人としての内面を発見・共有し、単なる日記が日記文学へと進化した。そういう飛躍的発展の起爆剤になったのが「土佐日記」だ――たらればさんはそう解説します。
もちろん「土佐日記」のような文学的高みにのぼる作品をものするためには、抜群の教養、文才、技術が必要だったでしょうが、21世紀の今は、圧倒的に発達したテクノロジーが、その落差を埋めてくれます。
実際、最新VRのほとんど異次元といっていい表現力は、かな文字と散文の組み合わせという「発明」に匹敵するインパクトがあると私には思えます。
紀貫之という大いなる先達に遅れること1100年余。「土佐日記 2020」ともいうべき内面のあり方を、だれもが紡げる時代がやってきたのでは? そんな妄想が、目の前にいる美少女(自分)の肖像を眺めながら、脳に去来したことでした。
ちなみに「2020」としたのは、VRが一般に本格普及するのは2020年以降の数年の間ではないかと、筆者を含む一部のIT系ライター、技術者たちが予想しているためです。
大変興味深く読んでおります。まさに土佐日記ver.2020ですね。ささ、続けて続けてw
— たられば (@tarareba722) 2018年2月4日
もう少し考えてみたくなり、知人の識者の皆さんにも質問してみました。
共著書「オトコのカラダはキモチいい」などがある文筆家・岡田育さん(ツイッターID @okadaic)からは「チャットや仮装などで別人格になる『なりきり』では、このような『外装からの解放』は感じなかったのか?」と的確な質問をされました。
なるほど。もともと「自分でない何か」になりたいという願望を自覚していた人は、そのような手段をとったのですね。
ところが前述したとおり、私にとってそうした願望は絶無でした。正確には「自覚できていなかった」のかもしれません。
とにかく自分は見たとおりの自分で、これ以外の自分がいるなど、考えたこともありませんでした。外見が内面に強いている束縛を、これっぽっちも感じていなかった。世の中にはなりきりや仮装に熱中する人がいますが、そういう人々にはこうした願望・欲求があったのかと、むしろこのとき初めて実感できた気がします。
これだけは引用RTしたい、やっていけないことなど一つもない、現に私は53歳男性ミュージカル俳優が歌と芝居だけで完璧に16歳美少女を演じきるような瞬間をこの目で見続けているから……あの紛うことなき人力の仮想現実と、技術が丹治さんにもたらしたVR体験との接地点には、だから私も興味があるわよ。 https://t.co/UGwMhj5og2
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年2月4日
続)一度は諦めた、あるいは今まで考えたこともなかった、「男の身体のまま美少女になれる」ことの衝撃は計り知れない。それは「理解できない」という意味ではなく、わからないまま余計に言祝ぐべきことである、というふうに思える。オスカルのように男社会を生きよと教わった、女の身体を持つ私には。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年2月7日
ただ「実感できた」といっても、例えばコスプレをリアルの自分の身体で実行する気は今もって全く、一切ありません。
岡田さんは、石川禅さんという卓越した舞台俳優が芸を駆使し、役になりきって少女を演じる例を挙げました。それは理解できます。でも一般人、少なくとも筆者にはそんなこと全く、金輪際、無理です。なのにVRは、あまりにも容易にそれを可能にしてしまうのです。
理想の3Dキャラクターになるためには、まだ費用もスキルも必要です。けれどこれは時間の問題で、VRの普及とともに解決していくでしょう。いかついおじさんが、強面の上司が、マッチョな同僚が、家に帰ると愛らしい少女になって仮想空間にダイブしている――そんな日が遠からず来るかもしれません。
……いや、正直にいうと、実はその日は今もうすでに来ているのです。インターネットでつながったVR空間はいま、爆発的に成長していて、そこで人々はアバターの姿で集います。肉体の制約はなく、見た目は思いのまま。そんな世界が現に始まっています。
VRは、私たちをどこに連れて行くのでしょうか。