連載
#33 #啓発ことばディクショナリー
「面白くなれ」級友の一言に絶望…〝コミュ力〟の呪縛からの逃れ方
選別の言葉と向き合うのに必要なこと
就職活動や日常的な人付き合いなど、様々な場面で重視される「コミュニケーション能力(コミュ力)」。人間関係を深めるきっかけになる一方、会話が苦手な人を「コミュ障」と呼ぶ風潮につながるなど、負の側面も指摘されてきました。同調圧力を高める言葉と、どのように距離を取れば良いのか。学生時代にクラスになじめず苦労した、筆者の体験を元に考えます。(ライター・神戸郁人)
「人材」を「人財」と言い換えるといった、主に労働の現場で用いられる、「意識高め」な造語の起源を探ってきた筆者。仕事を華美に見せ、「楽しく働く」ことを称揚する。そうした言葉を、なぜ企業が好んで使うのか、長らく不思議に思ってきました。
上述したような造語は、「生き生きと職務に邁進(まいしん)する」という、働き手の明るいイメージを暗示します。一方で、経営層が抱く「理想的な勤労者像」に近づかなければならないと社員に思わせるような、圧力の源泉にもなりうるものです。
一連の語句は、働き手の人間性を業績に結びつける姿勢と、密接に関わっています。実際、管理職向けの経済誌に目を通してみると、こんな見出しの記事が少なくありません。
「変化に強い〝自律型人財〟を育てよ」「人財のバロメータは〝性格スキル〟だ」
個人の人となりを価値づける単語が盛んに用いられる背景に、どういった事情があるのでしょうか。人格評価の言葉に詳しい教育社会学者・本田由紀さんは、筆者の取材に次のように語りました。
「労働者の態度や資質を査定し、序列化したい。日本の企業が持つ、そうした欲望が、強く影響していると考えています」
本田さんへのインタビュー中、最も印象的だったのが、人付き合いに関わる概念「コミュニケーション力(コミュ力)」を巡るやりとりです。「コミュ力」は、主に新卒採用の面接で、企業が主要な選抜基準の一つと見なしてきました。
就職面接とは本来、職務上の具体的なスキルの有無を問う場です。しかし新卒採用の場合、就労経験がない学生たちが応募してきます。職場になじめそうか。組織が成長する原動力たり得るか。企業側は、そうした将来性を見極めようとします。
実務能力の提示が難しい学生たちを評価する上で、「コミュ力」は好都合な指標と言えます。場の雰囲気を盛り上げ、当意即妙に会話する。そんな風に他者の心をつかむ受け答えができるかどうかが、入社後の働きぶりを予測する手がかりになるからです。
一方で本田さんは「採用担当者の判断に、主観が入らざるを得ない」と指摘。「偶然話が弾むなど、コミュニケーションには環境要因が大きく関わります。にもかかわらず、その質を過度に重視する点で、差別的であると言わざるを得ません」と話しました。
「コミュ力」の程度を見定められる機会は、就活に限りません。むしろ日常生活にこそあふれているように思われます。例えば、友達の輪に入っていく際に、話術や人当たりの良さといった要素が強く意識されることはないでしょうか。
筆者は高校生の頃、クラスメイトとの距離を測りかね、積極的な交流を避けていました。関わり方がわからず、まごつくうちに、気づけばクラスで浮いた存在となっていたのです。
ある日、別教室へ移動しようとしたときのこと。他の生徒と雑談中の級友が、やにわに話しかけてきました。具体的な内容は覚えていませんが、他愛のない話題について、意見を求められたように記憶しています。
突然のことに驚き、口ごもり、答えに窮したためでしょう。級友は呆(あき)れた様子で、こう言ったのです。
「ずっと思っていたが、お前の反応はつまらない。もっと面白くなれよ」。腹の奥底から絶望感がせり上がってきました。
仲の良いグループに所属せず、〝根無し草〟だった筆者が、級友から「コミュ力」を評価された経験。心に巻き起こった、クラスという共同体から弾き出されることへの恐怖が、今でもありありと思い出されます。
学校の生徒間で自然に生じる序列は、俗に「スクールカースト」と呼ばれます。場の空気を敏感に察知し、適時適切に振る舞う。その術(すべ)に長(た)けているのが、いわゆる〝カースト上位層〟の人々であると理解されることが多いようです。
会話の巧拙とは、個人が持つ多様な性質の一つに過ぎません。また本田さんが述べたように、その成否は環境要因にも左右されるものです。しかしスクールカーストにおいては、ヒエラルキーでの位置付けを定める、決定的な因子の一つと捉えられます。
筆者の学生時代の体験は、就職面接のケースに通底しています。いずれの事例においても、集団の成員や加入候補者を、「コミュ力」の有無によって査定・選別するメカニズムが見て取れるからです。
この点に関して、文筆家・編集者の吉川浩満さんが、著書『哲学の門前』(紀伊国屋書店)に興味深い見解を記しています。
吉川さんは更に、「コミュ力」を「集団のノリや権力構造に適応する能力」とも解釈。その上で、「コミュ力」が高い者を評価するのではなく、意見を通せる者を「コミュ力がある」と結論づける、倒錯した営みがなされているのではないかと疑問視しています。
学校であれ企業であれ、共同体には共通の規範が欠かせません。「ノリや権力構造」は、自然状態のままでは混沌としかねない集団や組織に、秩序を授ける枠組みであると言えるでしょう。
吉川さんの論を踏まえるならば、その秩序を追認・維持・強化する概念が「コミュ力」であると考えられそうです。対人関係の構築能力が一定の水準に達している。そう認められた人物をメンバーに迎えれば、集団の同質性が高まり、基盤も安定します。
ただし上述の環境は、人情の機微に通じていると見なされた〝上位層〟による支配、そして人付き合いが不得手とされた〝下位層〟の抑圧と表裏一体です。後者の人々を「コミュ障」と呼び、蔑む風潮が、そのことを裏付けているように思われます。
「コミュ力」という言葉が形作る体制は、非常に強力です。その磁場に巻き込まれ、苦悩する事態を避ける上で、何ができるのでしょうか。筆者が高校時代に体験した出来事の後日談を引き合いに、考えてみます。
級友による声かけから少し経った頃、筆者は学習塾に通い始めました。教室で出会ったのは、他の学校からやってきた同年代の子どもたちです。出自も所属も異なる塾生との会話は刺激的で楽しく、「学校だけが居場所ではない」と悟る契機にもなりました。
進級・進学のための補習を受けたい生徒が集まる塾では、勉強が最優先。だからこそ人間関係が学校ほど濃密にならず、互いに程よい距離感を保てたのです。母校のクラスメイトの視線がなく、気後(おく)れせずに交われる利点もありました。
自らが身を置く共同体が、いかなる論理で駆動しているか把握した上で、別の価値体系を重んじる集団にも目を向ける。そのようにして視野を広げることで、一つの集団に固執することなく、心安らかに生きられると学んだ経験です。
人付き合いを巡って下された評価は、個人の本質的な価値と関係がありません。環境を変えれば、その評価は容易に覆り得るのです。そう認識するところから、「コミュ力」の呪縛をほどく過程が始まるのではないでしょうか。
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