連載
#59 「見た目問題」どう向き合う?
当事者でも「わかる」と思ってはいけない アルビノライターの決意
顔にアザのある漫画家・鈴木望さんとの対談を通して考えたこと
アルビノゆえの色素の薄い髪、瞳、肌と特徴的な容姿を持つライター・雁屋優さん。小説や漫画など創作におけるマイノリティの描かれ方について、モヤモヤすることがあったといいます。自身もアザのある「見た目問題」当事者であり、アザのある少女を主人公とした恋愛漫画「青に、ふれる。」を連載中の漫画家・鈴木望さんとの対談を経て、雁屋さんが考えたことをつづってもらいました。
孤独を楽しむ私の傍らには、いつも小説や漫画をはじめとした創作物がありました。現実世界がどれほどつらくても、創作物があるから、憧れのキャラクターに恥じない自分でありたいから、と私は前を向けたのです。やがて、自分でも小説を書き、自分の世界を作っていくようになりました。
一方で、救いであるはずの創作の世界に言いようのないモヤモヤを覚えることもありました。私は、色素が薄く、日焼けへの対策が必要な遺伝疾患・アルビノの当事者ですが、創作物でのアルビノのキャラクターの描かれ方には一定の傾向があると感じています。
「病弱」「短命」など迷信に基づいていたり、日焼けに対する弱さが過剰に強調されていたり、「儚い」といった無力そうな描かれ方をされたりすることが多くあります。
すべての創作物がそうであると言いたいわけではありません。日本語で手に取れる創作物にはそのような傾向の作品が多いように感じられるのです。
創作物においてマイノリティをどう描くかについては、近年議論がさかんにされています。創作物にマイノリティを描くこと、あるいは描かないこと。それは、マイノリティ当事者を勇気づけることも、傷つけることもできます。
創作物を楽しむ側の人間として、そして、小説を書く表現者として、私は、創作とマイノリティについて、どう考え、どう行動すべきなのか。これをなかったことにして先に進みたくないと思いました。
そこで、顔にアザのある少女が主人公の恋愛漫画「青に、ふれる。」を連載中の漫画家で、主人公と同じくアザがあり「見た目問題」当事者でもある鈴木望さんに対談をお願いすることにしました。
対談では、驚きの連続でした。「見た目問題」当事者で何らかの発信をしているという共通点こそあるものの、私と鈴木さんには多くの異なる部分がありました。その違いに触れられたことで、私自身の思いこみに気づいたり、新たな発見をしたりすることができたのです。
一番忘れられないのは、鈴木さんの「過去こそ変えられる」という言葉です。過去に起きた事実は今となってはどうしようもないことですが、その出来事の解釈は今からでも変えられるのだそうです。
「青に、ふれる。」を描くにあたり、ご自身の過去の経験を振り返ることもあるという鈴木さんに、私は思わず聞いてしまいました。
「過去の経験を振り返って、傷つけられていたことに気づくのは、つらくはないですか」
私も、自身のマイノリティ性に関する記事を書くにあたり、過去を振り返ることがあります。
マイノリティ性が強い私は、この社会で「ふつう」とされている価値観のなかでは想定されておらず、過度に驚かれたり、何度も説明を求められたり、心ない対応をされたりすることが少なくありません。
多くのシーンでマジョリティと判断される友人たちは、私の経験を聞いたり、隣を歩いたりすると、社会の冷たさを痛感するそうです。そのような状況なので、過去を振り返ると、多くの場合、相手の言動に傷つけられていたことに気づき、次からその人を避けようと思うことになります。
しかし、傷つけられていたことに気づく結果になっても、鈴木さんのその後の感じ方や行動は私とは異なるものでした。「傷つけられた事実はあるけど、その人なりの信念や思いがあったのかもしれない。今なら、違う関係性を築けるかもしれない」と考える鈴木さんに、私は動揺を隠せませんでした。
どんな感情や事情が裏にあろうとも、その人に傷つけられた事実は変わらない。そのような人と関係を築くなんて、自分がつらくなるだけで、互いにプラスになる関係性など実現するはずがないのでは。心からそう思っていた私には、鈴木さんのような捉え方があることそのものが、衝撃でした。
これは、どちらが正しいかではありません。そのときの状況や本人の気持ちで、どうするのがいいかはそれぞれに違うでしょう。ただ、その捉え方があることに、私は驚きました。
漫画「青に、ふれる。」は、作者の鈴木さん自身も当事者である「顔のアザ」だけでなく、相貌失認のキャラクターも登場します。
思わず、「自分の知らないマイノリティ性だと、自分のマイノリティ性よりわからなくて、怖い部分もあるのではないでしょうか」と尋ねると、鈴木さんはこう答えてくれました。
「自分のマイノリティ性のことも、わからないと思って描いています」
目を開かれるような思いでした。「青に、ふれる。」でも描かれているように、アザにどう対処するかは人それぞれですし、アルビノだってそうです。
アルビノであっても、色素の薄さも、視力も、フィットする日焼け対策もそれぞれで、アルビノをどう捉えるかも一様ではありません。私のように、「眼の症状がよくなればそれでいい。見た目に関しては、特異な見た目をしている私に問題があるのではなく、人の容姿の多様性を認めようとしない社会の側の問題だから、隠す必要も感じない」と考える人だけではないのです。
自分のことを自分で理解しているのはいいことです。でも、私が知っているのは、私のアルビノのことだけです。間違っても、アルビノそのものを「わかる」なんて、思うべきではありませんでした。そう思いそうになるたびに、私はこの対談を何度でも思い返すでしょう。
「見た目問題」の当事者として、小説や漫画の表現に傷ついた経験があるか、また他の創作物へ思うことはあるかと尋ねたときの鈴木さんの言葉は、私にとっては、道を示してもらったかのようでした。
「他の創作物にモヤっとすることはあるけれど、納得いくものを自分で描きます」
鈴木さんがそう言い切れること、そしてそれを実践していく姿に、私はたしかに希望を見ました。私が納得できるものを、私が作り続ければいい。これが私の望むものだと、作品で示すしかない。
そもそも私がライターとして記事を書き始めたのも、今あるものに納得できないと思うところから始まっていました。創作についても、同じことだったのです。自分の納得できるものがないなら、自分で作っていく。私は、その道を選びます。
書き手であることを決めたなら、己の言葉で、思考で、作品で、道を拓くより他にないのです。私は、私の結論を、作品の形にしていきます。
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