連載
#8 10人の沖縄
泡盛「残波」社長は復帰っ子 「本土に負けてたまるか」家業に新風
焼酎業界でトップ目指す
「10月生まれだから、(復帰50周年のときは)まだ49歳ですよ」
冒頭からいきなりツッコミを入れてきた比嘉さん。これまで筆者が出会ってきた沖縄の人たちと、テンポやノリが少し違う気がしました。これは年齢によるものもあるのでしょうが、話を聞いていくと、中学生から沖縄を離れて生活していたことが分かりました。
長崎市にある中高一貫の男子校に進学し、大学は東京へ。沖縄に戻ってきたのは25歳の時ですから、10~20代の大半は沖縄にいませんでした。
ただし、最初から沖縄を飛び出すことを考えていたわけではなく、家庭の事情で学習塾へ通うことになり、その成り行きで本土の学校に進んだのだと比嘉さんは言います。
「うち(比嘉酒造)は祖父が1948年に創業しました。家内制手工業なので、昼間は子どもがいないほうがいい。塾でも行って勉強してこいと言われました。仕事の邪魔になることもあったのでしょうが、祖父母が元々は学校の先生で、親父は中卒だったから(苦労させたくないと)、教育に対して非常に厳しい面がありました」
小学4年生になって学習塾に通い始めると、同じ復帰っ子がたくさんいました。「家がお酒を造っていると、いじめられるターゲットになりやすいんです。酒臭いなどと言われて」。比嘉さんはこう話し、他の子どもたちには負けたくないという気持ちが湧いたことを明かします。
一方で、塾通いは比嘉さんにとって楽しみでもありました。
自宅のある読谷村からバスに乗って沖縄市内の塾まで行くのはちょっとした冒険でしたし、お小遣いももらえました。「勉強はさほど楽しみではなく、万年Bクラスでしたけどね」と笑う比嘉さんですが、本土進学の目標を持った同級生たちにも刺激されて、共に中学受験をすることになりました。
受験するにあたり、比嘉さんは沖縄の人が少ない学校を志望しました。「僕の家が酒蔵ということはわからないので、いじめられる対象にもならない」という理由からです。結果的に入学した長崎南山中学校・高等学校は5人しか沖縄出身者がいませんでした。
初めて足を踏み入れた本土は、比嘉さんの目にどう映ったのでしょうか。
「内地の人は勉強熱心で、自分の目標を全部決めていました。上昇志向があって、お坊ちゃんが多かったです。ただ、スポーツをやらせたら、僕の方が野球部よりもうまかったですよ。僕ですか? テニス部です」
正月やお盆の風習、祭りの様子も、沖縄とはまったく違いました。兵隊ではない米国人がいる町の光景にも違和感があったそうです。
長崎で中学、高校の6年間を過ごした後、比嘉さんは推薦入試で東京農業大学の醸造科学科へ入りました。大学では勉強もほどほどに、自由気ままに暮らしていたそうです。
「最初はパチンコばかりやっていました。それと学生運動ですね。生協(生活協同組合)の学生理事をやりました」
きっかけは生協の新歓コンパでした。何の気なしに行ってみると、学生たちが世田谷の「ボロ市」に出品するための教科書や、卒業生の家具などを集めていることを知り、興味を持ちました。加えて、そうした物品を運ぶ際にクルマの運転ができることも大きな動機になったといいます。
東京にも居場所ができ、学生生活を謳歌していた一方で、比嘉さんはカルチャーショックも受けます。同年代の仲間たちがあまりにも沖縄のことを知らなかったのです。
「沖縄に対しては、みんな英語を話せる、テレビ番組は全部英語というイメージをみんな抱いていました。今のようにインターネットなどがないので、情報が偏っていました。『違うんだよな……』という思いでいっぱいでした」
その反発もあったのか、比嘉さんは最初のころ、沖縄出身だと名乗りたくありませんでした。「長崎から来たと言ったほうがかっこいいという、見えっ張りなところもありましたね。『お前、名前は比嘉なのに、なぜ長崎?』という指摘も受けましたが(笑)」と、比嘉さんは振り返ります。
さまざまな刺激を受けた東京の日々でしたが、大学卒業を待たず、1997年に比嘉さんは沖縄へ帰ることになります。実家からの要請でした。
「(焼酎ブームなどの影響で)比嘉酒造の売り上げが伸びていて、20人くらいの従業員では手が回らなくなっていました。祖父母から『助けてくれ。戻ってこい』と」
小学校を卒業してすぐに地元を離れてから十数年。25歳になった比嘉さんは再び読谷村で暮らし始めます。戻ってきた当初は、かつての同級生たちが冷たく感じたといいます。
「模合(もあい=相互扶助の会)に入れてもらえませんでした。居酒屋でその光景を見るたびに、いいなあと思っていました」
けれども、地元の商工会議所や観光協会などに入り、お酒の場にも顔を出しているうちに、同年代とのつながりもできてきました。彼ら、彼女らとの対話は、故郷である沖縄への意識を高めることにもなりました。
「話を聞くとみんな苦労していました。苦労の度合いはさまざまですが、共感することは多かったです。その中で、『本土から沖縄はバカにされているよね』という話にもなりました。こういうことがあると負けたくないと思いますね」
本土に負けてたまるか――。比嘉さんは家業の成長によってそれを体現すべく、沖縄の酒造メーカーにはない新たな技術を次々と取り入れていきました。例えば、ステンレスタンクを最初に導入したのも比嘉酒造だったそうです。
父親とともに県外にも積極的に学びに行きました。
「工場の新しい機械を見つけるために、展示会に行ったり、それだけでは足りないので、九州の名だたる酒造所を回ったりしました。電話をかけて、『沖縄で泡盛を造っています、見学させてください』と。これは東京から戻ってきて、すぐにやりましたね」
中でも比嘉さんが驚いたのは、あるジュース工場のシステムでした。衛生管理などのためにゾーニングは細かく設定されているし、生産効率を考えた製造ラインの組み合わせも目からうろこでした。「1社でここまでやるなんてすごい。沖縄の企業は太刀打ちできないな」と比嘉さんは危機感を持ちました。
そのほかにも、醤油やみりん、味噌の工場も視察しては、どうしたら効率的に泡盛を大量生産できるかを研究し、父親とも頻繁に議論しました。
ちょうどそのころ、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」によって沖縄ブームが巻き起こり、泡盛業界も活況を呈していましたが、それだけでは満足せずに変革を進めたことが、結果として、比嘉酒造をトップクラスの泡盛メーカーの地位に押し上げたといっても過言ではないでしょう。
1/13枚