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連載

#8 10人の沖縄

泡盛「残波」社長は復帰っ子 「本土に負けてたまるか」家業に新風

焼酎業界でトップ目指す

泡盛の「残波」を製造・販売する比嘉酒造の比嘉兼作社長=いずれも筆者撮影
泡盛の「残波」を製造・販売する比嘉酒造の比嘉兼作社長=いずれも筆者撮影

目次

10人の沖縄
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。 (ライター・伏見学)

沖縄で1972年に生まれた人たちは「復帰っ子」と呼ばれています。この呼称には沖縄県民の期待なども込められているといいます。幼いころから復帰っ子として育った彼ら、彼女らはどのような道を歩んできたのでしょうか。

第8回は、復帰っ子の一人であり、泡盛の人気銘柄である「残波」を製造・販売する比嘉酒造の比嘉兼作社長(49)です。自身の節目でもあるこの年に、沖縄を代表する会社のトップは何を思うのでしょうか。
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中学から本土へ

「10月生まれだから、(復帰50周年のときは)まだ49歳ですよ」

冒頭からいきなりツッコミを入れてきた比嘉さん。これまで筆者が出会ってきた沖縄の人たちと、テンポやノリが少し違う気がしました。これは年齢によるものもあるのでしょうが、話を聞いていくと、中学生から沖縄を離れて生活していたことが分かりました。

長崎市にある中高一貫の男子校に進学し、大学は東京へ。沖縄に戻ってきたのは25歳の時ですから、10~20代の大半は沖縄にいませんでした。

ただし、最初から沖縄を飛び出すことを考えていたわけではなく、家庭の事情で学習塾へ通うことになり、その成り行きで本土の学校に進んだのだと比嘉さんは言います。

「うち(比嘉酒造)は祖父が1948年に創業しました。家内制手工業なので、昼間は子どもがいないほうがいい。塾でも行って勉強してこいと言われました。仕事の邪魔になることもあったのでしょうが、祖父母が元々は学校の先生で、親父は中卒だったから(苦労させたくないと)、教育に対して非常に厳しい面がありました」

読谷村にある比嘉酒造の本社
読谷村にある比嘉酒造の本社

小学4年生になって学習塾に通い始めると、同じ復帰っ子がたくさんいました。「家がお酒を造っていると、いじめられるターゲットになりやすいんです。酒臭いなどと言われて」。比嘉さんはこう話し、他の子どもたちには負けたくないという気持ちが湧いたことを明かします。

一方で、塾通いは比嘉さんにとって楽しみでもありました。

自宅のある読谷村からバスに乗って沖縄市内の塾まで行くのはちょっとした冒険でしたし、お小遣いももらえました。「勉強はさほど楽しみではなく、万年Bクラスでしたけどね」と笑う比嘉さんですが、本土進学の目標を持った同級生たちにも刺激されて、共に中学受験をすることになりました。

受験するにあたり、比嘉さんは沖縄の人が少ない学校を志望しました。「僕の家が酒蔵ということはわからないので、いじめられる対象にもならない」という理由からです。結果的に入学した長崎南山中学校・高等学校は5人しか沖縄出身者がいませんでした。

初めて足を踏み入れた本土は、比嘉さんの目にどう映ったのでしょうか。

「内地の人は勉強熱心で、自分の目標を全部決めていました。上昇志向があって、お坊ちゃんが多かったです。ただ、スポーツをやらせたら、僕の方が野球部よりもうまかったですよ。僕ですか? テニス部です」

正月やお盆の風習、祭りの様子も、沖縄とはまったく違いました。兵隊ではない米国人がいる町の光景にも違和感があったそうです。

沖縄を知らない同級生たち

長崎で中学、高校の6年間を過ごした後、比嘉さんは推薦入試で東京農業大学の醸造科学科へ入りました。大学では勉強もほどほどに、自由気ままに暮らしていたそうです。

「最初はパチンコばかりやっていました。それと学生運動ですね。生協(生活協同組合)の学生理事をやりました」

きっかけは生協の新歓コンパでした。何の気なしに行ってみると、学生たちが世田谷の「ボロ市」に出品するための教科書や、卒業生の家具などを集めていることを知り、興味を持ちました。加えて、そうした物品を運ぶ際にクルマの運転ができることも大きな動機になったといいます。

東京にも居場所ができ、学生生活を謳歌していた一方で、比嘉さんはカルチャーショックも受けます。同年代の仲間たちがあまりにも沖縄のことを知らなかったのです。

「沖縄に対しては、みんな英語を話せる、テレビ番組は全部英語というイメージをみんな抱いていました。今のようにインターネットなどがないので、情報が偏っていました。『違うんだよな……』という思いでいっぱいでした」

その反発もあったのか、比嘉さんは最初のころ、沖縄出身だと名乗りたくありませんでした。「長崎から来たと言ったほうがかっこいいという、見えっ張りなところもありましたね。『お前、名前は比嘉なのに、なぜ長崎?』という指摘も受けましたが(笑)」と、比嘉さんは振り返ります。

「偏った沖縄のイメージがあった」と東京での学生生活を語る比嘉さん
「偏った沖縄のイメージがあった」と東京での学生生活を語る比嘉さん

大学を卒業せずに帰郷

さまざまな刺激を受けた東京の日々でしたが、大学卒業を待たず、1997年に比嘉さんは沖縄へ帰ることになります。実家からの要請でした。

「(焼酎ブームなどの影響で)比嘉酒造の売り上げが伸びていて、20人くらいの従業員では手が回らなくなっていました。祖父母から『助けてくれ。戻ってこい』と」

小学校を卒業してすぐに地元を離れてから十数年。25歳になった比嘉さんは再び読谷村で暮らし始めます。戻ってきた当初は、かつての同級生たちが冷たく感じたといいます。

「模合(もあい=相互扶助の会)に入れてもらえませんでした。居酒屋でその光景を見るたびに、いいなあと思っていました」

けれども、地元の商工会議所や観光協会などに入り、お酒の場にも顔を出しているうちに、同年代とのつながりもできてきました。彼ら、彼女らとの対話は、故郷である沖縄への意識を高めることにもなりました。

「話を聞くとみんな苦労していました。苦労の度合いはさまざまですが、共感することは多かったです。その中で、『本土から沖縄はバカにされているよね』という話にもなりました。こういうことがあると負けたくないと思いますね」

ジュース工場に衝撃受ける

本土に負けてたまるか――。比嘉さんは家業の成長によってそれを体現すべく、沖縄の酒造メーカーにはない新たな技術を次々と取り入れていきました。例えば、ステンレスタンクを最初に導入したのも比嘉酒造だったそうです。

本社工場のステンレスタンク
本社工場のステンレスタンク

父親とともに県外にも積極的に学びに行きました。

「工場の新しい機械を見つけるために、展示会に行ったり、それだけでは足りないので、九州の名だたる酒造所を回ったりしました。電話をかけて、『沖縄で泡盛を造っています、見学させてください』と。これは東京から戻ってきて、すぐにやりましたね」

中でも比嘉さんが驚いたのは、あるジュース工場のシステムでした。衛生管理などのためにゾーニングは細かく設定されているし、生産効率を考えた製造ラインの組み合わせも目からうろこでした。「1社でここまでやるなんてすごい。沖縄の企業は太刀打ちできないな」と比嘉さんは危機感を持ちました。

そのほかにも、醤油やみりん、味噌の工場も視察しては、どうしたら効率的に泡盛を大量生産できるかを研究し、父親とも頻繁に議論しました。

ちょうどそのころ、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」によって沖縄ブームが巻き起こり、泡盛業界も活況を呈していましたが、それだけでは満足せずに変革を進めたことが、結果として、比嘉酒造をトップクラスの泡盛メーカーの地位に押し上げたといっても過言ではないでしょう。

看板商品である「残波」シリーズ
看板商品である「残波」シリーズ

焼酎業界でトップ目指す

生まれこのかた、復帰っ子として歩んできた比嘉さん。こう呼ばれることに対して気負いはないのでしょうか。

比嘉さん自身は特に抵抗はなく、むしろ年齢を聞かれたときに「復帰っ子です」と言ったほうが沖縄では話が早いこともあるそうです。

かたや、復帰っ子に対して嫉妬している人もいるといいます。

「あんたが何かしたわけじゃないでしょ、とはよく言われます。それはそれで仕方ない。ゆとり世代の人たちがそう言われるのと同じです」

比嘉さんは甘んじて受け入れつつも、復帰っ子による団体の活動を手伝ったり、50周年記念の泡盛を企画したりと、沖縄にとって節目となるこの年を盛り上げていきたいと考えています。

他方で、自身の人生にとっても節目を迎えます。これから先、比嘉さんはどう生きていくのでしょうか。

「戦争が終わって何もないところから立ち上がり、今度は米国の統治下から本土復帰に向けて活動してと、先輩たちのパワーはすごい。今の状況で言うと、沖縄が日本から独立するくらいのパワーです。それを考えたら、今の僕らが次にすべきなのは日本に追いつく、そういうことなんだろうな」

具体的には、焼酎業界でナンバーワンになるという野望を比嘉さんは抱いています。

「今はまだ天と地の差があります。平均的なことをやっていても県外では勝てません。人がやらないことをしないと絶対に厳しい。これは沖縄全体の課題です」

「ただ、それを少しずつ取り組んでいけば、もしかしたら50年後は、息子たちの世代がその地位に立っているかも。復帰からの50年、沖縄人は遊びすぎましたね……。残りの人生、もっとガツガツと生きていきたいです」

比嘉酒造が掲げる企業コンセプトは、「伝統は先をゆく」。これは、昔ながらの酒造りを大事に守りながらも、先に進まなければならないという意味です。

新しい泡盛を造るだけではなく、異なる種類の酒を造るなど、常に変化を生み出す努力をしなければ、本土企業には勝てないと比嘉さんは力を込めます。

「『いいちこ』や『黒霧島』は、日本中どこに行っても置いてありますよね。そういう商品をつくれる企業が沖縄から一つ、二つ出てきたら、状況は変わってくると思います。いや、沖縄を代表する会社としてはそれくらいやらないと」

日本のトップランナーになるのは夢のまた夢だと謙遜する比嘉さんですが、みなぎる気迫は十分に伝わってきました。(※第9回「ウチナーンチュよ、外に出よう」はこちらです)
 

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。

こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。

しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。

そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。

もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。

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