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連載

#9 10人の沖縄

ウチナーンチュよ、外に出よう 異国で気づいた沖縄の強みと危機感

「ナイチャーに負けて悔しくないのか?」

那覇市内で飲食店を開く宮城信綱さん。1972年生まれの「復帰っ子」だ=筆者撮影
那覇市内で飲食店を開く宮城信綱さん。1972年生まれの「復帰っ子」だ=筆者撮影

目次

10人の沖縄
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点から、この50年をひもときます。 (ライター・伏見学)

前回記事の比嘉さんと同様、1972年生まれの「復帰っ子」としてこれまでの人生を歩んできたのが、那覇市内で飲食店を経営する宮城信綱さん(49)。高校時代はラグビー部に所属していたこともあり、体格と声の大きさに迫力があります。勢いよく話し始めた宮城さんですが、沖縄の現状を大いに憂えています。

「飲食業はおいしいところをたくさん内地の(人が経営する)店に持っていかれています。でも、それに対してウチナーンチュは、『ああ、あれナイチャーがやってるところだろ。儲かってていいよなー』と文句しか言いません。なぜなのかと聞くと、『ここ沖縄だからさ。沖縄は俺たちのものなのに』と。自分たちが貧しい思いをしていることも全部人のせいにするのか。情けなくはないのかと思いますよ」

こう厳しく指摘する宮城さん自身も、もしかしたらそういう発想の人間になっていたかもしれないと過去を顧みます。何が宮城さんを変えたのでしょうか。
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那覇市の国際通り=2021年6月17日
那覇市の国際通り=2021年6月17日 出典: 朝日新聞社

24歳でオーストラリアに

宮城さんは那覇の城下町・首里で育ちました。高校は県内屈指の名門である首里高校へ。毎日泥まみれになってラグビーボールを追いかけていました。

ただし、勉強はろくにせず、「地元の友だちとつるんで悪さばかりしていましたね」と宮城さんは苦笑いします。

卒業後、大学に進学することなく、居酒屋でアルバイトをする日々を送っていました。しばらくして本格的に料理の仕事に就き始めましたが、当時のことは辛い思い出しかないそうです。

「料理が好きで、20歳くらいでこの世界に入りました。でも、給料は安く、フルタイム働いて12〜13万円しかもらえませんでした。先輩を見ても尊敬できる人がいない」

「素行の悪い人ばかりで、“飲む・打つ・買う”が当たり前。自分が30歳、40歳になってもこのままかと思うと、目標がなくなってしまって、料理自体が嫌になったんです」

悶々としていたある日、思い立って、中国・北京で働いていた一つ上の兄に会いに行きました。宮城さんは英語が好きだったため、漠然と海外暮らしに憧れはありました。

ただ、中国で仕事をするのは難しそうだとなり、別の選択肢を探す中でワーキングホリデー制度を知りました。料理以外の道が何か見つかるかもしれない――。そうした思いでオーストラリアへ行くことを決めました。24歳のときでした。

オーストラリアに渡った宮城さんは、すぐに日本人オーナーのスパニッシュ系レストランで働き始めました。テキパキと仕事をこなす宮城さんは店で重宝されたそうです。給料も良く、時給は沖縄の倍の1400円でした。

オーストラリアは料理人の社会的地位が高いことにも宮城さんは驚きました。通常、ワーキングホリデーは1年間しか滞在できず、延長したい場合には学生ビザや就労ビザの取得を目指します。

オーストラリアでは技術職である料理人の信用性は高く、ビザが取りやすかったため、宮城さんはすんなりと滞在期間を延ばすことができました。

現地でさまざまなネットワークをつくる過程で、素晴らしい料理人にたくさん出会いました。料理の世界に失望していた宮城さんにとって、大きなターニングポイントとなりました。

「このまま料理の仕事を続ければいいじゃん」と考えを改め、それ以降はいっさいブレることなく今に至ります。

オーストラリア時代の宮城さん=本人提供
オーストラリア時代の宮城さん=本人提供

寿司を半分に切って出す

一方で、悩みも抱えていました。それは、日本料理の技術が一向に上達しないことです。

途中からオーストラリアの日本食レストランで雇われたものの、現地の和食といえば、カリフォルニアロールやテリヤキばかり。

「四季の食材は手に入らないし、繊細な味も必要とされていません。寿司のネタは大きいものがウケるし、天ぷらの衣も油ベトベトで大きくすればいい」

「和食はこういうものだと言っても、『だから? もっと食べやすいものを出してよ』で終わってしまいます。郷に従え、なんです」

信念を曲げることができず、商売が立ち行かなくなった日本の料理人は少なくありませんでした。ただ、宮城さんはまだ若く、経験も浅かったため、海外の環境にも柔軟に対応できたことが救いだったといいます。

「シェアしたいから1貫の寿司を半分に切ってくれと言われることもよくありました。最初は屈辱でしたが、長いことやっているうちに気にならなくなりましたね」

店を乗っ取られて一文なしに

オーストラリアの生活は順調で、現地で知り合った沖縄出身の女性と結婚もしました。10年近く勤めていた和食レストランも居心地が良く、仕事にやり甲斐を感じていました。

そんな折、店の日本人オーナーから「そろそろ引退したい」という話がありました。

独立志向が強かった宮城さんは、「もし良ければ僕に店を売ってくれませんか?」と打診しました。オーナーは喜び、二つ返事で了承しました。

宮城さんはすぐさま、オーストラリア人のビジネスパートナーとともに資金を出し合い、開業準備を進めました。すると、知り合いの日本人が手伝わせてほしいと名乗り出てきました。

その男性は英語がペラペラで、税金や登記などの手続きは全部引き受けるというので、宮城さんは安心して任せることに。

ところが、ふたを開けたら、店の経営権や株式などすべて乗っ取られていました。裁判も起こしましたが、後の祭り。まったく勝ち目はありませんでした。

「おかしいなと思った時は遅くて、店は戻ってきませんでした。もう一度ビザを取り直して再起を図ろうと思ったのですが、奥さんにも愛想を尽かされて離婚しました。すべてを失いましたね……」

宮城さんは途方に暮れ、このままオーストラリアにいるのは難しいだろうと、10年ほど積み立てていた年金の払い戻し150万円程度を受け取り、帰国を決めました。

ただし、このまま沖縄に戻っても、何の技術もない自分が通用しないことは明白でした。考えた末に、そのころYouTubeでよく参考にしていた、名古屋で日本料理店を営む料理人にダメ元でメールを送りました。

「オーストラリアで一文なしになりました。沖縄に帰りたいけど、大した技術もありません。1年でいいからあなたの店で面倒をみてください」

2週間が過ぎて諦めかけていたとき、「まずは来い」と返事がありました。すぐにシドニーから名古屋までの直行便チケットを取り、ドタバタのうちに24歳から約10年暮らしたオーストラリアを後にしました。

本物の日本料理に飢えていた宮城さんにとって、名古屋の料理人の技術は刺激的でした。「全部盗んで帰るぞ!」という気概を持って1年間働いたことで、宮城さんは一人でやっていける自信をつけることができました。

沖縄に戻り、老舗の料理店で約4年間の修業を積んだ後、2011年7月に今も運営する飲食店「ぼたん屋」の開業にこぎつけました。

那覇の中心街に開業した「ぼたん屋」=筆者撮影
那覇の中心街に開業した「ぼたん屋」=筆者撮影

業績が低迷、耐える日々

宮城さんが開いた店は、いわゆる沖縄料理屋ではなく、これまで培った技術を生かした和食がメインの創作料理屋でした。

オープンしてから半年間は好調で、連日のように地元の友人や知人などが駆けつけては、大いににぎわいました。

ところが、そこから業績が落ち込み、1年ほど低迷を続けました。「やばいと思いましたよ。飲食店の赤字は本当に恐怖です。毎日湯水のようにお金が出ていきました」と宮城さんは回想します。

客が来ない目の前の状況に迷いも生じ、もっと安売りして、飲み放題や食べ放題をやった方がいいのではないかなどと、自信を失っていきました。

そんな宮城さんに喝を入れたのは、沖縄で高級料理店を経営する知り合いのママでした。

「あんた、メニューは絶対に触るなよ。値段も下げるな。むしろ上げろとまで言われました。そこからはただ耐える日々でした」

同時に、自身のことを冷静に見つめ直す中で、客に対して高慢だったかもしれないと気づき、反省しました。

「外装や内装が妙に格好つけていました。威張っていたんですよね。そんな店にお客さんは来ないですよ」

「本当はおいしい料理を食べてもらいたいのに、入りにくい雰囲気をつくるなど、矛盾していました。そこからですね、壁にメニューなどをベタベタ貼り出したのは」

自己満足ではなく、客に好まれる店づくりを心がけました。すると少しずつ常連客ができてきて、売り上げも戻ってきました。

ここ数年間はコロナ禍もあって厳しい状況ですが、大きく下振れするわけでもなく、経営は安定しているそうです。

ぼたん屋の人気メニュー「お魚のあぶり棒寿司」=筆者撮影
ぼたん屋の人気メニュー「お魚のあぶり棒寿司」=筆者撮影

「ナイチャーに負けて悔しくないのか?」

20代から30代にかけて沖縄を離れたことで、宮城さんは地元を客観視できるようになりました。

それまでは「沖縄の政治や社会に対して1ミリも興味がなかった」といいますが、海外の人たちは政治に対してもアクティブに取り組んでいることに衝撃を受けました。また、そうしたテーマの話を振られた時に、答えられない自分が恥ずかしかったといいます。

「沖縄がなぜ日本に属しているのかと聞かれても、それすら説明できませんでした。向こう(オーストラリア)に行ってから沖縄の歴史などを勉強し始めましたね」

勉強したのは沖縄のことだけではありません。

「高卒でフラフラしていて、無知だったので、本当に何も知らなかったんです。日韓関係のことで韓国人に激怒されたこともありますよ。そこから世界のこともいろいろと調べるようになりました」

このような経験をした宮城さんは、沖縄に戻ってきて久しぶりに再会した地元の仲間たちがあまりにものんびりしているため、強い危機感を抱くようになりました。

「沖縄はすごくいいところです。沖縄の人たちは思いやりもあるし。でも、事なかれ主義で、現状に満足しきっています」

「それが仕事にも出ていて、内地の企業に営業などでよく負けます。向こうから見たら、きっと沖縄はおいしいと思っているんだろうな。悔しいですね」

「俺たちも負けないように頑張ろうぜ」と周囲に熱く語ったこともありましたが、返ってきた反応の多くは、宮城さんが望んでいたものとは異なっていました。

「今の国際通りは沖縄のアイデンティティがありません。お客さんもナイチャー、働いている人もナイチャー。この状況を見て『ああ、ナイチャー儲かってずるいわ』と文句ばかり言うのです」

「このチャンスを与えているのは俺たちウチナーンチュで、国際通りを自分たちで変えてしまったんです。悔しいとか、何とも思わないのかなと」

沖縄の未来を見据えたとき、のんびりと育ってきたウチナーンチュが、果たして子どもたちに何を教えられるのだろうかと、宮城さんは不安に思います。

せめて料理という自分の専門領域の中ではやれることをやろうと、子を持つ同世代の仲間たちに「食育」の大切さを説いています。

「例えば、化学調味料は便利だから、忙しい時はつい使いたくなると思うんです。ただ、きちんと出汁を取ってつくった料理を子どもに食べさせてあげないと、大人になって味がわからなくなるよと口酸っぱく言っています」

少しでも現状に対する危機意識を持ってもらうための努力をしています。「子どもたちに正しいことを教えていくのが、大人のウチナーンチュの役目じゃないですか」と宮城さんは力を込めます。

今の国際通りは本土や海外の企業が数多く進出している=2022年4月、筆者撮影
今の国際通りは本土や海外の企業が数多く進出している=2022年4月、筆者撮影

ウチナーンチュよ、外に出よう

決して悲観しているばかりではありません。宮城さんは、沖縄の人たちは世界で活躍できる素質があると断言します。

「ウチナーンチュは、海外では強いですよ。特に人をつなげる力はすごい。僕もシドニーで他の人たちから言われて、改めて気が付きました」

「物おじしないから、どんどんネットワークをつくることができます。海外ビジネスで成功しているウチナーンチュはその強みを存分に発揮しているわけです。沖縄の県民性はこういうところなんでしょうね」

この武器を生かせば、沖縄はもっと輝くと宮城さんは信じています。

歯に衣着せぬ物言いで沖縄を叱咤激励する宮城さんですが、根底には故郷に対する深い愛情があるからこそ。

海外に行ったことで自らの人生が変わったように、沖縄の若い世代にもどんどん外に飛び出して見聞を広めてほしいと宮城さんは願っています。(※第10回「沖縄の保育に力を尽くした女性の50年」はこちらです)
 

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。

こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。

しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。

そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。

もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。

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