連載
#10 10人の沖縄
「人を殺すも生かすも言葉」 沖縄の保育に力を尽くした女性の50年
働く女性の子どもの面倒が原点
抜けるような青空の下、子どもたちが歓声を上げて走り回ったり、遊具に列をなしたりしています。ここは那覇市首里石嶺町にある「みどり保育園」。0歳から6歳まで現在120人ほどの乳幼児が通うこの園は、50年前に石川さんが開きました。
「当時、この辺りはサトウキビ畑が一面に広がっていました。それを整備していってね……」と、石川さんは保育園の周囲を指さしながら丁寧に教えてくれます。
石川さんは、那覇市の隣、浦添村(現在の浦添市)で生まれました。
今でこそ浦添は那覇のベッドタウンとして人口11万人を超える中核都市になっていますが、「小学校は茅葺き屋根で、雨が降れば皆ぬかるみで転んでいました。うりずん(旧暦2、3月ごろ。農作物の植え付けに最適な時期)になると、家の畑を手伝いなさいと言われるような田舎でした」と、幼少期の思い出を語ります。
のどかな地域だったこともあって、子どもたちは障がいの有無などにかかわらず同じ小学校、中学校に進み、学校生活を共にしました。それが「お互いを認め合う」という石川さんの価値観の原点になっています。
地元の中学を卒業後、石川さんは首里高校に進学。自宅から片道4キロの道のりを歩いて通いました。
「首里高校って、大学へ行く人が多い進学校のようなところでした。ただ、そういう意識は私にはなくて。浦添のど田舎から首里高校に行ったら、皆優秀で、井の中の蛙でした。私は、勉強はそれほど熱心な方ではなく、女親分的に男の子たちを引き連れてイタズラばかりしていました」
勉強以外の面でもカルチャーショックを受けました。
「都会の人たちは何てお洒落なんだろうと驚きました。また、年ごろの女の子は誰々が好きになったとか、そういう話をするけれど、ついていけませんでした。田舎で淡々と生きてきた人間にとって、周りは輝いて見えました」
そうした経験が美容に対して憧れや興味を持つきっかけとなりました。高校卒業後、手に職を持ちたかった石川さんは、単身で関西に渡り、美容師の道を目指しました。
沖縄を早く離れたかった理由もありました。
「私たちは自由ではありませんでした。戦争に負けたのは日本なのに、何で沖縄がアメリカ軍の統治下に置かれないといけないのか。幼少のころ、地元の美人のお姉さんが米兵のハーニー(恋人)になって、大きな袋にたくさんのチューインガムやチョコレートを持って帰ってきました」
「そういう時は地元のおばさんたちも喜んでいたけど、陰では悪口を言われたり、後ろ指をさされたりしていました。そういう切ない部分が人間にはあるんだなと思いつつ、あのときの私はただただ、この窮屈で小さい島から出たかった」
関西を選んだのは、親戚の一人が兵庫県尼崎市に住んでいたため。親や兄妹の反対もなく、当面の生活費として母から10ドルをもらい、石川さんは那覇から船で神戸に向かいました。
親戚の家で1~2泊お世話になって、ハローワークで職を探しました。すぐに住み込みで働けるパーマ屋(美容院)を見つけて、オーナーの食事を毎食作ったり、掃除や洗濯をしたりしながら、美容の仕事に日々励みました。
「昔から貧乏な暮らしをしていたから、皆のご飯を作るのは苦でもなかったです。そのころの月給が4千円くらい。生理用品や肌着、ちょっとした口紅を買ったりできる必要最低限の金額でした。でも、自分で稼いだお金なのですごく大事にしました」
当時は中学校を卒業して働く人も多く、石川さんのところにも鹿児島や熊本、北海道などから年下の女性がやってきました。一つの部屋で5~6人が雑魚寝をするわけですが、夜になるとホームシックになる子たちは多かったといいます。
「シクシク泣く声を聞きながら、大丈夫だよ、大丈夫だよと慰めてあげました。私は窮地になればなるほど、優しさだったり、思い切りの良さだったりが出る性格なんだろうなと、そのときに自覚しました」
本土の生活ではこんなこともあったと、石川さんは明かします。
「市場で買い物をしていると、『あんた、沖縄からきはったんやってな。真っ黒や。裏も表もわからへんわ』とか、『英語使えるんかい?』などとからかわれました。それに対して、『英語は沖縄に帰ったらペラペラだけど、こっちでは日本語をしゃべれるよ』とやり返しました」
「私は、それが差別だとは捉えていませんでした。沖縄から来たことを隠していた人がたくさんいた中で、私は堂々としていましたよ。若かったし、そういうことが屈辱とか惨めとかは思わず、新しい世界を面白がっていました」
他方で、嬉しい瞬間にも立ち会えました。母校である首里高校が夏の甲子園に2回目の出場を果たし、球場で応援することができたのです。「後輩たちが誇らしかった」と石川さんは笑みをこぼします。
本土には4年間滞在し、働きながら専門学校にも通って、美容師の資格を取りました。そして1970年、「大阪万博」の年に沖縄に帰ってきました。
帰郷後すぐ、母の知り合いが、普天間に小さな空き店舗があるので、パーマ屋を開くならどうかと紹介してくれました。それがどういう場所なのかも分からずに、石川さんは即座にやりますと契約しました。
いざ現地に行ってみると、Aサインバーや連れ込みホテルに囲まれた場所でした。石川さんが開業した店に来る客は、ほとんどがAサインバーで働く女性たち。当時はベトナム戦争の最中で、米兵相手の商売が大繁盛していたため、一般の主婦もアルバイト感覚で夜の仕事をしていました。
ある日のこと――。3~4歳の子を連れた女性客が、店にあったソファを見て「キヨちゃん、ここに置いてこうね」と石川さんに話しかけました。「置いてくってどういうこと?」と尋ねるのを遮るように、「あんた、お利口に遊んどくんだよ。キヨねえねえの言うことをよく聞くんだよ」といった感じで子どもを座らせて、仕事に出て行ってしまいました。
そうやって一人を受け入れると、他の客も「キヨちゃん、うちの子も連れてきていいね」と言い、店で預かる子どもがどんどん増えていきました。
石川さんが見事なのは、そこで困惑したり、拒んだりするのではなく、子どもたちの面倒を見ながら、現状がより良くなるための思案を巡らせていたことです。
「この子たちをどうするのかを考えた時に、保育園という施設を作ることが解決策であることに間違いありませんでした。自分がずっとここで見ているわけにもいかないし」
時を同じくして、石川さんも第1子を妊娠しました。ところが、働きづめで多忙を極めるうちに、切迫早産のリスクに直面し、入院せざるを得なくなってしまいました。そのタイミングで、パーマ屋も閉店するよりほかありませんでした。
71年2月に長男が無事に誕生し、自らが子育てに深く関わることで、ますます保育の重要性に目が向きました。
夫やその家族に保育の仕事がしたいと訴えると、義理の父が「キヨちゃん、保育園作りたいなら、あっちの畑を使えばいいさー」と、那覇市首里石嶺町に所有していたサトウキビ畑を快く提供してくれました。その畑を整備し、保育園を建てることを決めました。
並行して、保育士の資格を取るために、長男を産んだ2カ月後には夜間の短期大学へ通い始めました。そして72年12月、みどり保育園が開園しました。
開園の7カ月前に、沖縄は本土復帰を果たします。みどり保育園は、本土復帰を見据えて準備をしていたため、職員の数や建物の面積など、最初から日本政府の認可保育園の基準に合わせていました。
「胸を張って、すぐに認可を取ってやるんだという気概でした」
ところが、ここからがイバラの道でした。復帰によって琉球政府から厚生省(現・厚生労働省)に管轄が変更されたため、これまでの行政手続きのやり方などは通用しなくなり、県の職員も石川さんも日々勉強しなくてはなりませんでした。
「世の中の過渡期に認可を取るのは、本当に苦労の連続でした。毎日のように役所に通いましたが、昨日教えてもらったことが、次の日には全く違う内容に変わっているのは常でした。今のようにFAXやメールがあるわけでもなく、申請書もすべて鉄筆で書くような時代でしたし」
また、復帰後は沖縄県が政府から軽く見られていたところもあったようで、それが遅々として申請が進まない原因にもなっていました。
「本土から取り残されているから、その分、沖縄は福祉が出遅れているわけですよ。また当時は、保育そのものが下に見られていました。保育園に行く人はかわいそうだとか。それが腹立たしくもあり、恨めしくもあり……」
悪戦苦闘の末、ようやく政府から承認を得て、75年2月に認可保育園として再スタートを切りました。
みどり保育園はすぐに那覇の住民から支持を集めます。本土復帰後、首里石嶺町は宅地開発が進み、保育園の周囲にもマンションやアパートが立ち並びました。また、このエリアは、かつて戦争孤児院があった場所で、その名残で今も県の福祉施設が集積しています。そこで働く職員の多くもみどり保育園を利用していました。
「義父の畑が偶然ここにあったわけですが、この場所は“福祉村”と呼ばれるほど、福祉や保育に対する理解が深い。私は20代で園長になったけれど、すごく大事にされました」
地域に育てられたと語る石川さんですが、この50年を振り返ると、当然いいことばかりだけではありません。忘れられない大事件も起きました。
「公園の滑り台の上から2歳の子が落下して、病院に救急車で運ばれたことがありました。くも膜下出血になって、意識が戻らない日が続きました。毎日病院に通っては、『私の命で引き換えられるならば……』という思いで一杯でした」
幼児は奇跡的に快復し、普通の生活を送れるようになりましたが、まだ意識不明の時に、その祖母がとった行動を、石川さんは忘れられません。
「孫の頭に手をかざして、『目覚めて、目覚めて。あなたは大丈夫。皆待っているよ』と、私たちを責めるのではなく、その子にひたすら話しかけていました。『園長さん、この子は大丈夫ですよ』とも言ってくれました」
「もしあの時に責められていたら、もう保育の仕事をしたくなくなっていたかもしれません。人を殺すも生かすも言葉なんだなと。一番ショックな出来事と、一番の深い喜びがそこにありました」
人を責めず、皆で支え合おう――。石川さんは改めてそう胸に誓いました。
保育園の立ち上げが本土復帰と重なったこともあって、世の移り変わりに翻弄された石川さんでしたが、復帰に対しては強い期待がありました。ただし50年経った今、やり場のない気持ちも抱いています。
「政府が日本に変われば、アメリカ軍がこんなに威張ることはなくなるだろうと思っていました。それがまさか残り続けるとは誰も思わなかったです。日本人としての権利をしっかり手渡してくれるものだと願って復帰したが、まったく変わらずに50年が経ちます」
また、沖縄に対する本土の人たちへの複雑な思いも吐露します。
「『沖縄の人は本当に優しいよね、明るくてね』とよく言われるけれど、本当は誰にでも優しいわけではないです。本音でいうと、ヤマトンチュー(本土の人)にだまされてきた人はたくさんいるからね。悲しい思いをした人もいっぱいいる。沖縄びいきの人に対しては、ちょっと嫌だと思う時もあります」
「ひいきしなくてもいいから、差別しないでほしい。同じ人間として、同じ日本人として、沖縄が戦後、77年間も引き受けてきたものを一緒に解決していこうよと思ってくれる人が増えてほしい」
そうした葛藤を抱えながらも、石川さんは前を向きます。これからも保育の場を提供し、沖縄の女性たちが少しでも生きていて良かったと思える社会を作る。それが沖縄の未来に向けた自らの使命だと感じています。
今年3月、石川さんは開園以来務めてきた園長の座を息子に譲りました。
「まだまだ元気でしょ。それだといくつまで園長すればいいのと思ったわけ。バトンって、自分が元気なうちに元気な相手に渡して、周りも拍手で迎えるというのが必要なのでは。私が育ててもらったように、皆で息子を育ててちょうだい、と。きちんとバトンを渡しておかないと、相手は育っていかないんだと実感しました」
以前と比べて時間にゆとりができた石川さん。これからは旅行がたくさんできると小躍りします。一人旅は昔から好きで、鹿児島から北海道の稚内まで鈍行列車で行ったこともありました。好奇心旺盛な石川さんにとって、道中で受ける刺激はこの上ない喜びです。
「お酒好きなので、旅先で店を探すわけですが、絶対いい店だよねと思っても入る勇気はすごく必要。ガラガラと入り、視線を集めながら、『一人です、いいですか?』と伺って」
「ここでは園長で威張っているけれど、旅に出たら一人の老人ですよ。老人であることをしみじみ味わいながら、『どうぞ』と言われた時のほっとする喜び。人は椅子一つ与えられただけで、こんなに嬉しいんだとかね。向こうは『おばあちゃん、食事かな?』と思っているときに、『熱燗ください』と言って驚かせたり。そういう初めての出会いで、お互いが探り合いながら近づいていく。このやりとりがなんともいえず面白いです」
新しい世界を知ることが石川さんの生き甲斐です。自由を求めて沖縄を飛び出した10代のころと変わりません。
「いくつになっても、やれることはやったほうがいい。自分の心に正直であれば、どんどん行動すればいい」。それを体現し続けてきた石川さんの言葉はずっしりと重く、胸に響きました。(※「10人の沖縄」は今回で終了となります)
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