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連載

#3 10人の沖縄

右側→左側通行に 車のルール変わった沖縄、喫茶店に思わぬ影響

「店の前のバス停が……」

まちづくりNPOコザまち社中の理事長を務め、地元・沖縄市のために尽くし続けている照屋幹夫さん=筆者撮影
まちづくりNPOコザまち社中の理事長を務め、地元・沖縄市のために尽くし続けている照屋幹夫さん=筆者撮影

目次

10人の沖縄
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点から、この50年をひもときます。 (ライター・伏見学)

前回の記事で、1970年にコザ市(現在の沖縄市)で起きた「コザ暴動」の翌日、焼け焦げたクルマの山に遭遇したという金城馨さんの体験談を紹介しました。

そのコザ暴動の一部始終を、自宅の窓から目撃していたのが、照屋幹夫さん(68)です。高校1年生のときでした。
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1970年12月にあったコザ暴動。写真は火を付けられて燃える米国人の乗用車
1970年12月にあったコザ暴動。写真は火を付けられて燃える米国人の乗用車 出典: 朝日新聞社

コザ暴動の記憶

「国道沿いに実家があって、2階の窓から見ていました。黒人のファミリーがクルマから引っ張り出されていました」

ただ、照屋さんによると、奇妙な光景だったといいます。

「黒人ファミリーを外に出し終えてから、クルマをひっくり返していました。火をつけたりすることはなかったです。ウチナーンチュは白人よりも黒人のほうに好感を持っていたからかなと思ったんです。でも、白人に対しても、僕が見たのは、やはり人をどかしてからクルマをひっくり返す。変な暴動ですよ」

そう語る照屋さんですが、コザの人たちがそうした行動を取ったのもわかる気がしました。それは生まれてからずっと基地のそばで暮らし、日ごろからさまざまな米国人を見てきたことが大きく関係しています。

当時のコザは、ゲート通り周辺は白人街、コザ十字路周辺が黒人街と、住居がくっきりと分かれていました。まだ米国の人種差別が強い時代であることを象徴しています。

照屋さんが中学生のころにはベトナム戦争も激化し、毎日のように米兵が戦地に送り込まれていました。そんな時期に照屋さんが強く記憶している出来事があります。

コザ市(現・沖縄市上地1丁目)のゲート通り=1972年5月10日
コザ市(現・沖縄市上地1丁目)のゲート通り=1972年5月10日 出典: 朝日新聞社

「明日はベトナムに向かうという黒人の米兵が、基地の中で買ったたくさんのチョコレートの箱を、町で会う人、会う人みんなに配っていました。その兵隊は涙目でしたね。戦場の最前線に出されるのはマリーン(海兵隊)の黒人で、白人は後方支援だったそうです。そういうこともあって、当時は黒人のほうが優しかったイメージがあります」

では、白人は冷徹だったかというと、そういうわけでもない。照屋さんが「さすが米国人は違うな」と唸った場面がありました。

「商店街でおばあちゃんが転んだりすると、ウチナーンチュは『オバー、大丈夫ね?』と言うだけ。でも、通りかかった白人の兵隊はちゃんと手当てをしていました。これはすごいなと思いましたね」

こうしたコザの日常から、照屋さんは、国籍や人種は関係なく、米国人には良い人も悪い人もいるし、それは日本人も同じであるということを本質的に理解しました。

ゲート通りにある老舗のAサインバー「プリンス」。かつては米兵で大いににぎわった=筆者撮影
ゲート通りにある老舗のAサインバー「プリンス」。かつては米兵で大いににぎわった=筆者撮影

本土復帰の不安広がる

沖縄の本土復帰が近づいてくると、町の様相も変わり始めました。その原因は主に景気からくるものでした。

「この地域は米国経済に翻弄されていました。1ドル360円だったのが、復帰直前に円高になってくると、最近儲からなくなったという話をよく聞くようになりました。復帰することで、生活が良くなるのか悪くなるのかと、僕も含めてみな不安に感じていました」

米国そのものの景気も悪くなっていきました。照屋さんが小学生の時は、米国人=金持ちが当たり前でしたが、中高生のころには、私物を質屋に入れて酒を飲む米国人も見られるようになりました。

同時に、沖縄全体のムードにも変化が見られました。照屋さんが小学4年時に開かれた「東京オリンピック」では、日の丸の小旗を作ってみんなで応援するなど、「とにかく日本に帰るんだ!」と、学校を挙げて復帰運動が行われていました。ところが、復帰直前になると、今度は反対運動が広がりました。

「高校の時は、先輩たちに連れられて、与儀公園(那覇市)の復帰反対デモに出かけていきました。刑務所に一晩お世話になったこともあります(笑)」

沖縄の本土復帰は照屋さんが高校3年の時。その翌年には進学で福岡へ行ってしまったため、復帰直後の様子はあまり記憶にないそうです。

その一方、本土で暮らしたことで沖縄との違いを知ることができたほか、社会の成熟さや利便性などを経験したことで、沖縄社会がもっと変わるはずだと期待を抱くようになりました。しかし、現実には照屋さんが思っていた形にはなりませんでした。

沖縄が本土復帰した1972年5月15日に那覇市の与儀公園で開かれた「沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」。道一つ隔てた那覇市民会館では日本政府主催の沖縄復帰記念式典があり、祝賀会場と抗議集会が隣り合う現実となった
沖縄が本土復帰した1972年5月15日に那覇市の与儀公園で開かれた「沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」。道一つ隔てた那覇市民会館では日本政府主催の沖縄復帰記念式典があり、祝賀会場と抗議集会が隣り合う現実となった 出典: 朝日新聞社

ルール変更で客が減少

大学を出て、照屋さんは沖縄に帰ります。親が営んでいた民芸品店の上のフロアを喫茶店にして、マスターになりました。

当初は売り上げもまずまずでしたが、1978年7月30日に沖縄の交通ルールが変わり、車両が左側通行になると、店の経営に陰りが見られるようになりました。どういうことでしょうか。

「車は左、人は右」。サイレンを合図に右側から左側に移動する車。沿道で見物していた市民たちから拍手が起こった=1978年7月30日午前、那覇市
「車は左、人は右」。サイレンを合図に右側から左側に移動する車。沿道で見物していた市民たちから拍手が起こった=1978年7月30日午前、那覇市 出典: 朝日新聞社

「店の前にバス停があって、以前は那覇行きのバスが止まりました。便数も多いので、人が店の前にたまらないし、すぐに次のバスが来るので、階段を上がってきてコーヒーを飲んでくれる人もいました」

「ところが、ルール変更で泡瀬や嘉手納に行く下りバスの停留所になると、便数は1時間に1本と激減。バスを待つ人だかりができるし、雨でも降ろうものなら、階段のところにたむろされて、お客さんが店に入りづらくなってしまいました」

思わぬことで商売がダメージを受けて悩んでいたころ、たまたま喫茶店をよく利用していた客に沖縄市役所の人事課担当がいました。ある日、臨時職員が足りないからどうかと打診された照屋さんは、渡りに船だと思い、喫茶店を閉めて27歳の時に役所に入りました。

結局、2009年まで勤め、55歳で早期退職しました。辞めた理由は男気があるものでした。

国道330号線沿いの胡屋バス停。交通ルール変更で照屋さんの店の客足は遠のいた=筆者撮影
国道330号線沿いの胡屋バス停。交通ルール変更で照屋さんの店の客足は遠のいた=筆者撮影

その当時、沖縄市公共施設管理公社という財団が解散することになり、そこで働いていた人たちの雇用確保の意味でも、新たなNPOを立ち上げて、彼ら、彼女らに公共施設を管理させるという話でまとまりました。

照屋さんは行政側からNPOを後方支援する役割を担いましたが、NPO発足の直前になって理事長予定者が急遽、できないと断りを入れてきました。そこで副理事長に依頼をすると、返事はノー。「だったら俺が役所を辞めて、理事長をやるよ」と照屋さんは決断しました。

その裏には、地元貢献という思いがありました。コザは復帰後、バブル期までは右肩上がりで、沖縄本島中部の消費都市として各地から買い物客がやってきました。

ところが、隣接する北谷町の軍用地が返還されて商業施設ができたことや、人々の移動手段がバスから自家用車になって郊外にどんどん出ていったことで、かつてのコザの中心街は一気に凋落します。

「返還されたところは新しいし、広い駐車場も確保できます。かたや、こっちは老朽化してくるし、住民も老齢化して空き店舗が目立つようになりました。行政と地元のつなぎ役がいないと、この地域は厳しい状況でした。ずっとこの町を見てきているので、捨て置けませんでした」

照屋さんのこの心意気は今も変わらず、地元のために尽くし続けています。当時立ち上がったNPOであるコザまち社中は、今なお照屋さんが理事長を務めており、当初の指定管理事業にとどまらず、空き店舗のリノベーションやインバウンド向け宿泊事業、さらには、台湾をはじめとする国際交流事業なども手がけています。

コザの中心部にある一番街。沖縄で初めてアーケード化した商店街として有名=筆者撮影
コザの中心部にある一番街。沖縄で初めてアーケード化した商店街として有名=筆者撮影

嘉手納基地を平和の象徴に

地元のために身を捧げてきた照屋さんは、復帰50年を迎える沖縄をどう見ているのでしょうか。

「沖縄ってキーストーン(要石)なんです。そこに存在しなければならないものだから、どうしても割を食います。復帰して50年経つけどそれは変わりません。日本にある米軍基地の7割がまだ沖縄にありますよね。復帰するときに描いていた理想とはまるで異なります。話が違うんじゃないのと思うこともありますよ」

ただし、基地が存在するからこその可能性も感じています。

「国際性の豊かさは他の地域よりも優れているので、グローバルな人材を育てるにはもってこいです。そこはもっと前向きに活用すべきでしょう。道路をつくるのもいいんだけど、政府や行政には人づくりにもお金を出してほしいです。例えば、子どもたちが英語や中国語を当たり前に話せるようになるなど、もっと特色ある教育改革を望みます」

そんな照屋さんには壮大な夢があります。嘉手納基地を平和の象徴にすることです。

「自分の夢は、嘉手納基地の滑走路を1日開放し、世界中から子どもたちを呼んで、チョークを持たせて落書きをさせることです。そのときに、今日はこういうことをしているから攻めないでねと、平和的なメッセージも届けられればいいですね」

その夢の実現まで、照屋さんはコザのため、沖縄のために走り続けます。(※第4回「教員が願った本土復帰」はこちらです)
 

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。

こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。

しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。

そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。

もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。
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