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連載

#4 10人の沖縄

教員として願った本土復帰、だけど…バブル後に倒産、83歳女性の今

「自分の生活で手いっぱいだった」

宮古島出身で、現在は那覇市で暮らす83歳の西原トシさん=いずれも筆者撮影
宮古島出身で、現在は那覇市で暮らす83歳の西原トシさん=いずれも筆者撮影

目次

10人の沖縄
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点から、この50年をひもときます。 (ライター・伏見学)

有人・無人合わせ、160もの島嶼(とうしょ)から成る沖縄県は、島ごとに文化や風習が育まれ、それが沖縄の多様性を作り上げてきました。

ただし、島々の魅力が増すことと、島民生活が豊かになることは別の話。進学や就職のために多くの人たちが島の外へ出て行かざるを得ない状況は今も昔も変わりません。
 
実際、那覇には離島をルーツとする県民がたくさんいます。元小学校教員の西原トシさん(83)もその一人です。
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西原さんの自宅の庭にはパパイアの木が植えてあった=那覇市
西原さんの自宅の庭にはパパイアの木が植えてあった=那覇市

6歳のときに終戦

西原さんは宮古島市出身。宮古島と伊良部島をつなぐ全長3540メートルの伊良部大橋のたもとに広がる久松(久貝地区と松原地区を併せた呼称)で、1938年11月、8人兄妹の末っ子として生まれました。

生まれて数年後には太平洋戦争が始まり、長男、次男、三男は戦地に。那覇の沖縄師範学校女子部に在籍していた長女はひめゆり学徒隊として動員されました。戦争の被害は宮古島にも及び、米軍による空襲で市街地は焼け野原になりました。

西原さんが6歳のときに終戦を迎えますが、当時の記憶はほとんどないそうです。

「小学校に入ったけれど、戦争中は通学どころではなかった。木の下で先生を囲んで、何かを書いたりした印象はあるけど……。とにかく、小学1、2年のことは何も覚えていないです」

本土に進学、教員を目指す

戦後、西原さん一家は生活のために必死に働きました。幸いにして戦地に出ていた4人の兄妹は全員戻ってきましたが、戦前に父を亡くしていたため、一番年下の西原さんも手伝いに駆り出されました。

「久松の辺りは畑があったり、魚が取れたりしたので、食べるものにはそう困らなかったけど、現金収入はないので、青菜やさつまいもなどを町に売りに行きました。中学まではそんなに恥をかかなかったけれど、高校になると久松以外の友だちもできる。誰かに見られるのではないかと恥ずかしい思いをしました」

家計を助けながらも、西原さんは教員になるために勉強しました。長女が沖縄本島で教職に就いていて、自分もいつしか子どもたちを教えたいと思うように。志望校だった琉球大学は不合格でしたが、一浪して、大阪成蹊短期大学に入学しました。大阪には結婚した三女が暮らしていたからです。

西原さんが育った宮古島・久松=2020年1月
西原さんが育った宮古島・久松=2020年1月

1958年3月、西原さんはパスポートを片手に船に乗り込み、宮古島から神戸へ向かいました。初めて本土に足を踏み入れた印象は「とにかく寒かった」。

また、当時は沖縄出身者が本土で差別されることがあった時代でしたが、西原さんは首を横に振ります。

「学校で差別を受けたという記憶は全然ない。友だちが『寒いでしょう、寒いでしょう』と電車の中でもさすってくれた。友達がとっても良くしてくれましたよ」

心優しい仲間に恵まれた西原さんは、教員免許の取得に向けて勉強に励みます。ただし、生活費も稼がなくてはならないため、アルバイトをいくつも掛け持ちしました。映画館の売店、水商売女性のアパートの掃除、理髪店のタオル洗いなど。

学業との両立は並大抵のことではありませんでしたが、「何がなんでも卒業したい。絶対に教員になるんだという思いで歯を食いしばった」と西原さんは話します。

無事に短大を卒業し、西原さんは沖縄に戻ってきました。宮古島を出るときの通貨はB型軍票(B円)でしたが、帰ってきたらドルに変わっていたことに驚きました。

本土復帰を望んだのは

60年、晴れて教員となった西原さんが配属されたのは、座間味島の小学校でした。

香川・小豆島を舞台にした映画「二十四の瞳」を大阪時代に観て感動した西原さんは、主人公の女教師のようになりたいというイメージを抱いていたこともあって、離島の学校で働くことを嬉しく思いました。

そこで3年間、小学1・2年生の複式クラスを受け持ちました。その後、豊見城市の座安小学校、糸満市の高嶺小学校に勤めました。私生活も充実し、68年に結婚、翌年には長男を授かりました。

71年には浦添市の神森小学校へ転勤に。そのころの沖縄は、本土復帰に対して賛成・反対の声が激しく入り乱れていました。当時を語る西原さんの口調も熱を帯びます。

「私たちは、反対なんて一度も(ない)。教職員会は絶対復帰。なぜって。沖縄の人は、アメリカ人でもない、日本人でもない。国籍不明。一番これが悲しいじゃない。『日の本に帰ろう』という歌をいっぱい歌って、復帰を戦った。4月28日には毎年のように与儀公園に集まってデモもしたわけさ」

西原さんら教職員が復帰を望んだのは、沖縄の子どもたちのためでもありました。

「(沖縄がずっとこのままだったら)子どもたちは大変なわけさね。しかも、学んでいるのは日本語なのよ。日本の歴史も勉強しているのに、これで日本人になれなかったらどうなる」

本土復帰に向けて奔走した西原さんでしたが、復帰当日は淡々と過ごしたそうです。

「すごい雨が降ったのよ。朝から。その日は学校で職員会議がありましたね。復帰した時のことよりも、復帰しよう、復帰しようと皆で集まっていた時の方が印象深いです」

教員を辞めて家業に

沖縄本土復帰の2年後、西原さんは教職を辞します。あんなに苦労をしてまでもなりたいと願っていたのに……。理由は、復帰直後の沖縄にもたらされた好景気が関係しています。

「夫が事業を起こし、建材店を始めました。忙しくなって、お前も会社を見なさいと言うわけ」

道路や建物などの建設ラッシュによって、会社の業績はうなぎのぼり。夫はすぐに浦添市内にビルを建て、メルセデス・ベンツも購入しました。札束を持つ姿を西原さんは何度も目にしたそうです。

学校に事情を伝えると、校長も含めて皆がびっくりしました。当時の教員は地位も給料もトップクラスで、辞める人などまずいませんでした。「事務の人も、退職手続きの仕方がわからなかったくらい」と西原さんは笑います。

そうして家業に入った西原さんでしたが、沖縄の経済バブルは長く続きません。「海洋博不況」で地元企業は次々と倒産。西原さんの会社もその煽りを受けて、会社更生手続きを申請するまでに。

その後も仮設資材のリースや自動販売機の設置など、いろいろな事業に手を出しましたが、うまくいきません。

最終的には、現在の家の購入費だけを残し、それまで住んでいたビルなどはすべて処分しました。時代が昭和から平成へと移り変わるタイミングでした。

「手形に追われなくなって肩の荷が下りました。心に余裕が生まれたので、着物を買ったり、大好きな源氏物語を読んだりできるようになりました。それからは楽しく生きていこうと」

自らの生活で手いっぱいだったこともあり、復帰してからの沖縄社会に対してはあまり目が向きませんでしたが、その中でも西原さんが誇りに感じていたことがありました。高校野球です。

「沖縄水産が甲子園で準優勝を2回やった。その記念の掛け軸を買って、家に飾りましたよ。沖縄もやればできるじゃない、卑屈になることないよと強く思いましたね」

1990年の第72回大会で県勢初の決勝進出を果たした沖縄水産=甲子園球場
1990年の第72回大会で県勢初の決勝進出を果たした沖縄水産=甲子園球場 出典: 朝日新聞社

60年越しの悔しさ晴らす

平成に入ってからは、楽しく生きることをモットーに、ここまでの日々を過ごしてきた西原さん。現在の一番の喜びは、庭いじりをすることです。今の時期(4月)は毎朝5時に起きて、コーヒー飲んで目を覚ましてから、2時間ほど庭を掃除したり、花々の世話をしたりします。

「あそこに咲いているのはタチアオイ。戦争が終わった後、一番上の姉が本島からタネを持ってきて、宮古の実家に咲かせていました。この花のことは長い間忘れていたんだけど、何年か前に道端で偶然見かけたの。これ、姉さんが持ってきた花じゃないって。それでタネをもらってきて、ずっと庭で咲かせている」

手入れをしながら、「咲いたね。姉さん、咲いたね」と言って愛情を注ぎます。

姉との思い出があるタチアオイの花
姉との思い出があるタチアオイの花
とことん人生を楽しもうとする西原さんが、4年前に叶えた夢があります。それは、夏の甲子園100回大会に訪れたことです。

戦後初の沖縄代表として首里高校が出場した1958年の夏、西原さんは大阪で学生生活を送っていましたが、甲子園に足を運ぶことは叶いませんでした。

「首里高校が来たけど、お金がないから行けなかった。その日はビアガーデンでビール運びの仕事をしていました。応援に行きたかった」

それから60年後の2018年夏。西原さんは甲子園のスタンドに立っていました。

「諦められないから、100回記念大会には行ってきた。今行かなきゃ、いつ行くんだと。甲子園に入ったよ。外野席で応援した。『栄冠は君に輝く』を大きな声で歌ったよ。沖縄に帰ってきたら友だちが『あんた野球だけで行ったわけ?』と言うので、『当たり前よ、首里高校が来たときの悔しさよ』と応えてやったさ」

西原さんが包まれている充足感は、数々の苦難を乗り越えてきた先に手に入れたご褒美だと信じて疑いません。(※第5回「那覇の老舗楽器店の記憶」はこちらです)
 

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。

こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。

しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。

そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。

もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。
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