
創業71年の老舗
沖縄都市モノレール「ゆいレール」の美栄橋駅を降り、目の前を走る沖映通りを少しだけ国際通り方面へ進むと、左手に「高良楽器店」と書かれた看板が見えてきます。戦後間もない1951年に創業した老舗の楽器店です。
「うちは地元の店だから“何でも屋”でなくてはいけません。ギター、ピアノ、トランペットなど各種楽器だけでなく、アンプや楽譜、レコード、ミュージックテープも扱います。コロナになって教則DVDなんかも売れてますよ」
高良楽器店で社長を務める高良さんは説明します。店内を見渡すと、所狭しとさまざまな商品が陳列されています。もちろん、沖縄の伝統楽器である三線もありました。
復帰して悪くなった経済
高良さんは那覇市出身。父親である信一さんが開業した高良楽器店は、元々は国際通りにあって、1969年に現在の場所に移ってきました。
そのときの新聞広告には「沖縄唯一の楽器のデパート」というキャッチフレーズが踊ります。

その3年後、沖縄が本土復帰を果たしたとき、高良さんは中学2年生になったばかりでした。政治的なことはまったくわかりませんでしたが、物価が急に高くなったのは強烈な記憶として残っています。
「体操部の部活動が終わった後、中学校の向かいにあった文房具店兼食堂で、そばを食べたり、ジュースを飲んだりしていました。今までは1ドル360円のレートで、例えば、コーラは10セント(36円)でした。それが復帰して、通貨が円に変わると50円になりました」
「なぜこんなに高くなるんだと思いましたね。円に変わっても親から与えられるお小遣いは同じくらいだから、すごくお金がかかるようになった印象があります」
子どもたちだけではなく、大人も同感で、「ものが高くなった。復帰しなければ良かった」という主婦たちの声がちまたから聞こえてきたと、高良さんは振り返ります。
家業である楽器店にも影響はあったのでしょうか。
「楽器は趣味の道具で、急を要するものではありません。どうしても衣食住の後回しになります。復帰してから親父はよく『店売りは売れない、売れない』とぼやいていました」
ただし、高良楽器店は卸業務も手がけていて、コザ市(現在の沖縄市)の店などに楽器を販売していました。当時のコザには質屋がたくさんあって、米兵がよくギターなどを買いに来ていたそうです。ベトナム戦争へ行くのに、お金を持っていても仕方ないからというのが理由でした。楽器店にもベトナム戦争の特需があったわけです。
卸業で楽器が売れたため、高良楽器店の商売は何とか成り立っていましたが、那覇の近隣の店は厳しい状況でした。
なぜなら、当時の国際通りや平和通りなどはいわゆる地元の商店街で、お客も地元住民しかいません。廃業した店も少なくありませんでした。「復帰してこんなに経済が悪くなった」という恨み節も、高良さんの耳によく入ってきました。

ダイエーの恩恵受ける
そんな最中、1975年に流通大手のダイエーが沖縄に進出し、「那覇ショッパーズプラザ」として出店しました。場所は高良楽器店の真ん前。現在はジュンク堂書店が入居するビルです。それまで沖縄には大型商業施設がなかったため、まさに黒船到来です。
ダイエーの出店計画が表に出たとき、地元の商店街から反対運動が起きました。中には打撃を受けた店もあるでしょうが、結果的に、高良楽器店を含めて近隣の店々の多くは恩恵を受けました。
「ものすごい集客力がありました。沖縄本島の中部や北部からもダイエーを目指してお客さんがやってきます。その流れで近所の店にも立ち寄ってくれたので、沖映通りはかなり潤いました」
「実はこの辺りの店の定休日が水曜日なのは、当時の名残なんですよ。ダイエーが毎週水曜定休だったため、人が来ないから我々も休みにしようとなったんです」
いつしか水曜には、商店街組合で北部までバス旅行したり、ビーチパーティーをしたりと、地元で商売をする人たちにとって良い息抜きになっていたそうです。
国体練習後の楽しみは
復帰直後の沖縄では、数々のイベントが開かれました。当時、中高生だった高良さんにとっても思い出深いものがいくつかあります。
一つは、1973年5月の「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」です。地元の中学生は「無理やり駆り出されて」(高良さん)、オープニングセレモニーで演舞をすることになりました。
大会本番に向けた練習が何度も奥武山公園で行われました。高良さんが通った那覇中学校では、授業が終わると校舎に横付けされているバスに乗り込み、奥武山公園へ向かったといいます。練習の煩わしさはありましたが、行くと必ずパンとソフトドリンクがもらえました。
食べ盛りの中学生にとってはそれが楽しみで、中には練習が終わって学校に帰ってきたのに、再び奥武山公園まで戻ってパンをもらった強者もいたそうです。
もう一つの思い出は、1975年7月に開幕した「沖縄国際海洋博覧会」。那覇から千円程度で会場までの直行バスが出ていたこともあり、高良さんも興味本位で足を運びました。
「ソ連館に行くと、高校生でもお酒を売ってくれるんですね。もちろん、買って帰りましたよ(笑)。一番感動したのが、韓国館でした。館内で流れていた韓国の民謡が、沖縄民謡の節と似ていて、歌も沖縄の方言と変わらなかったのです。一度も韓国に行ったことはありませんでしたが、親近感を覚えました」
一方で、海洋博の後に沖縄を襲った不況は、以前の記事でも触れた通りです。
「高校生の自分にとっては、おもしろいセレモニーだと純粋に喜んでいたわけですが、海洋博が終わってから会場周辺に行くと、利用されていないホテルなどが廃虚のようになっていました。これを見て、実は大人たちは別のことをやっていたんだな、さぞかし金儲けしようとしたんだろうなと痛感しましたね」と、高良さんは感想を漏らします。

本土の企業、どんどん入って
高校卒業後、高良さんは東京の大学に進学しました。本土自体は、復帰後に修学旅行で京都と奈良へ訪れていましたが、東京はこれが最初でした。
「電車の乗り方が複雑で、こっちの人たちはよくやるなあと思いました。あとは新宿や上野の人の多さに驚きました。町を歩いている人が多いことは想像できましたが、駅にいる人の数のすごさといったら……。信じられなかったですね」
大学を出てから数年間、都内のピアノ専門店で修業を積んだ後、沖縄に戻りました。それからしばらく経った2011年3月に、他界した父に代わって高良楽器店の社長となり、今に至ります。
復帰前後の時代と比べて、沖縄は様変わりしました。本土からの企業進出も増加の一途をたどっています。この現実に対して、高良さんはポジティブにとらえています。
「国からの補助金やら、施策やらをアテにした本土の大きな会社がどんどん入ってきています。そういう点では沖縄も本土並みになってきたと思います。僕は悪いことだと思わないし、でかい企業がどんどん来ることで沖縄の経済が発展すればいい」
「(経営が外資に変わり)今のオリオンビールはとってもおいしいですよ。地元の生活者としては、良いものをつくってくれる人がどんどん乗り込んできて、沖縄を良くしてほしい」

国際交流の中心地に
観光客数も復帰直後とは比較にならないほどに。以前からの国内観光客に加え、近年はインバウンド需要によって訪日観光客が急増し、2019年には1000万人を超えました。
観光客の大半が訪れるのが、国際通りとその周辺です。高良楽器店にやってくる人も増えました。とりわけコロナ前までは中国人客が多かったそうです。
「中国人が買うのは、ほぼ管楽器。トランペットやサックスです。しかも日本製をほしがりました。『ヤマハ、ヤマハ』と連呼していましたよ。しかも、よりグレードの高いものを望むのです。よく30万円くらいの楽器をポンと買って帰りましたね」

「琉球王国のころ、那覇の港には多くの外国人がやってきたそうです。僕らの先祖はそういう国々と貿易をやっていたわけです」
高良さんは、そんな沖縄の文化や歴史を大切にし、今後も沖縄がそうした場所になることを強く望んでいます。
「それこそ、中国や台湾、米国などみんなが集えるような国際交流の中心地になればいいです。沖縄ならそれができる立場ですよ。中国大陸の人も、台湾の人も、沖縄人に対して親密ですし、米国の人も沖縄をフレンドリーにとらえているみたいですから」
約70年前、地元の人たちを相手に商いを始めた高良楽器店。いまやその視線は世界へと広がっています。(※第6回「ローカルヒーローになった少年」はこちらです)

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。
こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。
しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。
そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。
もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。