
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点から、この50年をひもときます。 (ライター・伏見学)
唐の世、大和世、アメリカ世……。沖縄は絶えず外からの影響を受けてきた歴史があります。その都度、社会のルールや仕組みが変わるため、そこで生きている人々は翻弄され続ける運命にありました。
本土復帰に向けた周囲の盛り上がりを尻目に、「一体、自分は何人なのかよくわからなくなった」と打ち明けるのが、演劇の世界に身を置く新垣敏さん(58)です。けれども、そうした原体験が、沖縄の文化や歴史に目を向け、それを守りたいという使命感に駆られるきっかけとなりました。

方言を使ってはいけない
新垣さんは1963年11月、那覇市の東に位置する南風原町で生まれました。小学校低学年のときに沖縄は本土に復帰しました。その前後のことを新垣さんはよく覚えています。
「小学校に入学すると、教室の黒板には『方言を使わないようにしましょう』という目当て(目標)が頻繁に書かれていました。それを見て、本土に復帰すると方言を公の場で使ってはいけないのかなと思いましたね。僕らより少し上の先輩たちは、方言を使ったら罰を受けて廊下に立たされたりしたようです」
本土復帰というハードルを超えるための試練の一つとして、方言を使わないという意識づけをさせられたと新垣さんは言います。
他方で、これまで米軍統治下の社会で育ってきたため、米国の文化や風習は身近なものでした。
小学校への通学バスではドル硬貨を使っていましたし、テレビの6チャンネルを回すと米軍放送が流れていました。さらに、新垣さんの父親が米軍基地で働く軍雇用員だったことも、米国の存在感を強めました。
「父が軍作業から帰ってくると、時々軍人が使うスコップだったり、チョコレートだったりを持ってきました。チョコレートに書かれているのは全部横文字。そういうところで沖縄は米国に統治されているんだという意識を持ちました」
さらに事情は少々複雑です。新垣さんの父は3人兄弟で、長男と次男を太平洋戦争で亡くしています。さらに母親(新垣さんの祖母)と、長男の娘も戦死しました。
「子どものころから両親に戦争の話を聞かされていたので、町中で米国人に会うと、『この人たちと昔、戦争をしていたのか』と感じることはありました」
俺は何人なんだ?
こうした中で本土復帰を迎えたとき、新垣さんは自分のアイデンティティがどこにあるのかわからなくなりました。
「日本人ではあるものの、日本がどういう国なのかはよく知りません。本土復帰のことを、周囲の人たちは恐らく『日本に復帰するよ』とか『日本になるよ』と言っていたはずです」
「それを聞いて、俺は日本人になるんだと思う半面、今の俺は何人なのだろうという戸惑いもありました」
新垣さんは「本土」という言葉にも疑問を持ちました。
「沖縄では本土のことを『内地』と言いますが、では、沖縄は『外地』なのかと。さらに、八重山諸島や宮古島の人は、沖縄本島の人たちを『本土の人』と呼ぶことがあります」
「本土復帰という言葉を簡単に使っているけれど、それをどういう意味で使うのかは、自分が何者なのかを知る上で大切だと思います」
この時の体験が、新垣さんのその後の思考を形作っていきました。
アポロや粉末スープに感動
本土復帰に際してアイデンティティの揺らぎを感じた新垣さんでしたが、復帰することによって沖縄が変わることには期待感がありました。小学生だったこともあり、特に楽しみだったのは食べ物です。
「いろいろな食べ物が本土から入ってきましたよ。チョコレートひとつにしても、これまではハーシーのような銀チョコしかなかったのが、明治や森永といったメーカーのチョコも買えるようになりました。『アポロ』は嬉しかったですね」
「スープもそう。キャンベルスープだけだったところに、たくさんの商品が入ってきました。粉末スープには驚きました」
学校の給食も、復帰してしばらくすると、米軍から支給されていた脱脂粉乳から瓶の牛乳に変わりました。復帰によって食べ物が充実したことを新垣さんは喜びました。
社会インフラの整備も急速に進みました。
1975年の「沖縄国際海洋博覧会」開催に向けて、自宅の前の道路が2車線から4車線に拡張されたり、沖縄本島中部の恩納村や、北部の山原地域のデコボコ道が舗装されたりするのを新垣さんは目の当たりにしました。
しかし同時に、目を逸らしたくなる光景にも出くわしました。
「親戚のおじさんがドライブに連れて行ってくれたときのことです。どの海に行っても、真っ赤に染まっていました。道路工事によって赤土が海に流れ出ていたのです。あれはショックでした」
南風原町の風景も一変しました。現在、「イオン南風原店」がある辺りは一面サトウキビ畑で、新垣さんの実家もサトウキビを作っていましたが、本土復帰後は住宅が次々と建てられ、畑の広がる景色は失われてしまいました。

米国への憧れと葛藤
1970年代の終わり、高校生になった新垣さんはホームステイを体験します。といっても、米国本土に行ったわけではありません。現在の那覇新都心エリアはかつて米軍用地があり、そのそばで暮らす米国人ファミリーの家に週末だけホームステイができるというプログラムに参加しました。
計12回ほど参加する中で、ホストファミリーに基地へ連れて行ってもらった際には、映画館で「スーパーマン」を観たり、ボーリングをしたり、スーパーマーケットで買い物をしたりと、米国の豊かさを体感し、憧れはさらに強くなりました。
しかしながら、こうした行動に葛藤や矛盾も感じていたと新垣さんは振り返ります。
「米国に憧れて、基地の中で英語を学びたいという思いがある一方で、両親に申し訳ないことをしているのではないかという気持ちになりました。戦争によって心が傷ついた父からすれば米国は仇。大人になった今でもそのことはずっと頭にあります」
ただし、これは沖縄の歴史そのもので、ウチナーンチュとして向き合わなくてはならない問題だといいます。この問題を突き詰めていくことで、結果的に「自分は何人なんだ?」という問いに対する答えが見つかるかもしれないと新垣さんは考えます。
そうした背景もあって、大学では民俗学を専攻し、沖縄の歴史や文化を学びました。そして、沖縄のことを深く学ぶにつれ、時代の移り変わりとともに文化や言葉など沖縄のスピリッツが失われていくことへの危機感を持つようにもなりました。
「こないだ、(1970年代の沖縄ロックシーンなどを描いた)『ミラクルシティコザ』の映画を観たら、当時の沖縄の人たちが葛藤していた光景にチムワサワサー(沖縄の言葉で胸騒ぎがするという意味)しました。この気持ちはいつも大事にしたい」
沖縄の文化を伝える「かぼっちゃマン」
沖縄のスピリッツを伝えるために、新垣さん自身が取り組んでいることがあります。それは演劇です。
20代で演劇の学校に通い、そこで身に付けたスキルを生かして、1999年に地元・南風原町でキャラクターショーのプロジェクトを立ち上げました。
「きっかけは地域の祭りです。市町村の祭りといったら、数十万円のギャラを払ってミュージシャンを呼んだり、カラオケ大会があったりというのが定番ですが、何か新しいことをしたい、そして子どもたちをたくさん呼びたいと思っていました。それで浮かんだのがキャラクターショーです」
キャラクターショーとは、ヒーロースーツなどを着た俳優がステージで演じる催し物のこと。南風原町は、脚本担当として「ウルトラマン」の誕生に関わった金城哲夫さんの出身地であり、町内に工場を持つ上間菓子店が「スッパイマン」という菓子を販売していたため、「南風原3大マン」にしようと考えました。
そうして出来上がったキャラクターが「黄金戦隊かぼっちゃマン」というローカルヒーローです。これは南風原町の名産であるかぼちゃに由来します。
新垣さんは、このプロジェクトの代表のほか、脚本、演出、制作、さらには悪役のウーマクー星人を演じるなど、八面六臂の活躍を見せました。

子どもたち向けのキャラクターショーでありながら、大人も喜んだり、笑ってくれたりしたことに、新垣さんの喜びはひとしおでした。
その後、全国各地にローカルヒーローが誕生しましたが、かぼっちゃマンはその先駆けとなる存在です。
かぼっちゃマンの活動は10年間で幕を閉じましたが、そのときのメンバーが沖縄の人気ローカルヒーロー「琉神マブヤー」で主役を演じるなど、新垣さんの思いは受け継がれていきました。
こうしたプロジェクトと並行して、新垣さんは地域の子どもたちへの演劇指導も行っていました。当時の教え子の一人が俳優の長本批呂士さん。テレビや映画のほか、新国立劇場の舞台にも多数出演しています。後進の活躍に新垣さんは目を細めます。
新垣さん自身も、南風原町の劇団で活動を続けています。沖縄のスピリッツをこれからも残していくために——。(※第7回「『ちむどんどん』と同時代生きるやんばるの女性」はこちらです)

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。
こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。
しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。
そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。
もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。