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連載

#7 10人の沖縄

「ちむどんどん」と同時代生きるやんばるの女性、苦楽はランとともに

幼少期は那覇に憧れ

沖縄本島北部の農業発展に貢献してきた岸本信子さん=筆者撮影
沖縄本島北部の農業発展に貢献してきた岸本信子さん=筆者撮影

目次

10人の沖縄
1972年5月15日の沖縄本土復帰から、まもなく50年。この半世紀で沖縄はどう変わったのでしょうか。連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点から、この50年をひもときます。 (ライター・伏見学)

NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」の舞台である山原(やんばる)。自然にあふれ、農業が盛んな沖縄本島北部エリアのことをこう呼びます。その中心となる町が名護市です。

2021年末、名護を拠点に活動する「山原女性農業者の会」が、内閣官房および農林水産省主催の「ディスカバー農山漁村(むら)の宝」に選ばれました。これは全国の農山漁村の優れた取り組みを選出するアワードです。山原女性農業者の会は、過去5年間で新規就農者支援数を4倍近くに増やしたことなどが評価されました。

その代表を務めるのが岸本信子さん(67)。会の活動とは別に、30年以上前から自身で洋ランの栽培などを手がけています。沖縄の農業振興に対する長年の功績によって、国が認定する名誉女性農業士にもなりました。

山原の自然を愛する岸本さんの歩みをたどります。
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自然にあふれる沖縄本島北部の「やんばる」地域=2018年3月、沖縄県今帰仁村、筆者撮影
自然にあふれる沖縄本島北部の「やんばる」地域=2018年3月、沖縄県今帰仁村、筆者撮影

那覇へのお出かけが楽しみ

岸本さんは母方の故郷である宮古島で生まれて、1歳になるころには一家で名護に移り住みました。両親は雑貨などを扱う商店を営んでいました。

今はやや寂しさもある名護ですが、当時の繁華街は大いににぎわっていて、米軍基地のある辺野古や金武などから米兵もよく遊びにきていました。

「習い事などで夜遅くなったときに、外人さんが英語で話しているのが聞こえると、駆け足で家に帰っていました」と岸本さんは回想します。

かつての名護は中心部でも畑や田んぼが広がっていて、現在の市役所がある辺りには墓地も並んでいたそうです。道路もまだアスファルト舗装されていません。

そんな環境で育った岸本さんは、小学校が終わると、アダンの葉っぱを切って風車を作ったり、用水路にわざわざ入ってずぶ濡れになったりと、文字通り野山を走り回って遊んでいました。

幼少期の岸本さんにとって、年に一度の楽しみが、音楽の発表会などで那覇に出かけることでした。

「本当に年に1回あるかないか。道も道でしょ。名護の七曲(許田から東江までのあたり)を通り過ぎるまでにバスで酔っちゃって。中南部に行くまで本当に大変でした」

「でも、名護とはお店や食べ物が全然違うでしょ。アメリカさんが多い分、ハンバーガーとか、スープとかがあって、異国に来た感じがします。バスには酔うけど、食べたいから行きたいんですよ」

復帰後は町中で工事

中学生になるころには、本土復帰の足音も近づいてきます。学校で方言を口にした罰として、生徒の首からぶら下げる、いわゆる「方言札」もありました。

「女子はあまり方言を使う人はいなかったけれど、男子はしょっちゅう廊下にずらりと立たされていました。札には方言を使った回数も書き込まれます。わざと相手が方言を話すように仕向けるんです。沖縄の人は、痛いというのを『アガー』っていうでしょ。それを言わせたいがために叩いたりしていました」

高校では英字タイプクラブに所属。「英文をずっと打っていましたが、本土復帰したら和文も必要になってくるよねと、友だちと話したり、実際に和文を練習したりしていました」と岸本さんは言います。

1972年、高校3年になってすぐに修学旅行で大阪と東京に訪れました。岸本さんにとって初めての本土でした。

「大阪の空港に降りた瞬間、灰色というか、何となく濁っている空でした。工業地帯かなと思うくらい。沖縄のように青くはなかったです」

修学旅行から戻り、間もなくして本土復帰の日を迎えました。岸本さんは復帰については何とも思わなかったそうです。

「アメリカさんから解放されて、東京と同じ、本土と同じ日本だよ、大和世になるんだよと、親が話をしているのを何となく聞いていました。当時は意味がわからなかったんでしょうね。特に関心もなかったし、お金のことだけしか覚えていません」

お金というのは、通貨がドルから円に変わったこと。食べ盛りだった岸本さんにとって復帰後の物価の上昇は他人事ではありませんでした。

「それまでは25セントって大金だったんです。部活の帰りに食堂へ行って、ぜんざい、パン、コーラなどの飲み物も十分に買えました。ヒラヤーチーも食べましたね。復帰後はそれができなくなりました」

ちょうどそのころ、北部エリアの開発が一気に進みます。名護に隣接する本部町で「沖縄国際海洋博覧会」が開催されるため、毎日のようにあらゆるところで工事が行われました。

「とても空気が悪くて、息を止めて歩いていました」と岸本さんは苦笑い。また、夕方に工事が終わると、作業員たちがその場でお酒を飲んで疲れを癒やしていたため、家の外からはしょっちゅう騒ぎ声が聞こえてきたそうです。

一方、道路が舗装されたことで、通学や買い物で利用する自転車の走行が楽になったと喜びます。

沖縄復帰1年後、空から見た沖縄・名護市の中心市街地。市役所や学校のある密集した住宅地の外側の海岸で埋め立て工事が進められていた=1973年5月、朝日新聞社機から 
沖縄復帰1年後、空から見た沖縄・名護市の中心市街地。市役所や学校のある密集した住宅地の外側の海岸で埋め立て工事が進められていた=1973年5月、朝日新聞社機から  出典: 朝日新聞社

洋ランとの出会い

岸本さんは74年に結婚。翌年7月に海洋博が開幕しました。県外からも多くの観光客が押し寄せ、名護周辺も大いに活気がありました。

また、夫の父が海洋博の会場で働いていて、岸本さん一家の自宅にしばしば客人を連れてきました。「長女を妊娠していたので、大きなお腹で何度も接待をしたことを覚えています」と岸本さんは話します。

78年に沖縄の交通方法が変わり、自動車が右側走行から左側走行になった時の記憶はもっと鮮明です。7月30日の変更日当日、夫と試運転してみようとクルマで自宅を出ました。すると道中で陣痛が始まり、慌てて病院に駆け込みました。そのままその日に長男を出産しました。

それからしばらくして、主婦として家庭を支えていた岸本さんに転機が訪れました。85年のことです。

「主人が、友だちから菊の栽培を一緒にやらないかと誘われたんです。仕事上、昼勤・夜勤の二交代制だったので、昼に時間があれば手伝うことになりました。でも、出荷などの繁忙期には昼も夜も人手が必要ですよね。主人に『誰がするの?』と聞くと、『お前しかいない。俺仕事だから』。結局、駆り出されました」

いつの間にか、岸本さんが中心となって菊の世話をするように。その様子を見ていた夫の父が、自分たちで畑を持って、洋ランの栽培をやったらどうかと提案。名護の呉我に土地を購入し、89年に洋ランを始めました。

岸本さんが運営する洋ランのハウス=筆者撮影
岸本さんが運営する洋ランのハウス=筆者撮影

「最初は菊と同じ。主人が『お前に迷惑をかけないから。ランのビニールハウスの開け閉めだけやってくれたら、あとは俺がやるから』と言っていましたが、やはり私がやる羽目に。選択肢はなかったです」と岸本さんは笑います。

当時はバブル景気で、花は飛ぶように売れていました。岸本さんが育てていた洋ランも高値が付いていたので、それを踏まえて設備投資をしました。すると、2年ほどでバブルは弾けて、洋ランの取引価格は10分の1程度に激減。岸本さんの事業計画は大きく狂いました。

バブル崩壊で火が付いた

ここでめげずに、やってやろうと奮い立つのが岸本さんの強さなのでしょう。洋ランの栽培以外の事業にも乗り出しました。

一つが、規格外の花を利活用したフラワーデザインです。当初は生け花を考えていて、教室にも通いました。しかし、岸本さんがメインで育てていたデンファレ(洋ランの一種)は生け花での需要があまりないことが分かり、機転を利かせて、コサージュやブーケを作るフラワーデザインに目を向けました。

まずは岸本さんが技術を学び、フラワーデザイナーの資格を取得。その後、自身でフラワー教室を開き、生徒を受け入れました。これまでにのべ30人程度が生徒に。中には資格を取り終えたのに、「ここに来ると楽しい。ストレス発散になる」と通い続けている女性もいます。

もう一つが、都市部の人々などが農業を体験したり、農村に滞在したりする「グリーンツーリズム」です。沖縄県も農業活性化に向けて奨励していたため、岸本さんは研修会などに積極的に参加し、ノウハウを学びました。

その後、実際に事業を立ち上げて、農業体験や農家民宿といったプログラムを提供しています。これらの新しい取り組みによって、何とか巻き返しを図っていきました。

フラワー教室は生徒たちの憩いの場所にもなっている=筆者撮影
フラワー教室は生徒たちの憩いの場所にもなっている=筆者撮影

奮闘する岸本さんの元には、次々と仲間が集まってきました。同じように不景気を吹き飛ばそうとする北部エリアの女性農業家たちがいたのです。

「みんなハングリーでした。農作物を生産しているだけでは駄目で、多角経営によって別の収入を得る方法を考えなければという危機感がありました」

そうした女性たちと一緒になって事業の成長を考えるとともに、2007年ごろから農業に従事する女性の自立のためのコミュニティーを作り、活動を始めました。それが今の「山原女性農業者の会」です。

「一人ひとりが経営者の意識を持っています。成果を出すために、ああでもない、こうでもないと、常に皆さん考えています。のんびりしている人はいませんよ。バブルが弾けて、何とかしなきゃいけないねという女性の知恵が出たんだと思います」

現在、山原女性農業者の会は、マンゴー、トマト、畜産、酪農などの農家15人ほどが参加しています。会に入ったことがきっかけで起業した人もいるなど、北部エリアの農業を語る上で欠かせない存在になっています。

農業の魅力を若い人たちに

本土復帰からの50年、岸本さんにとっては子育てと農業がすべてでした。特に農業は言われるがままに始めたわけですが、素人だった岸本さんがここまで続けられたのは、大好きな花だったからと言い切ります。

ただ、就農したことがきっかけで他の農家ともつながり、農業そのものに魅力を感じるまでになりました。

その楽しさを若い人たちに伝えたいという思いのもと、小学生の農業体験や高校生の農家民泊などを積極的に受け入れています。

次世代へのバトンタッチを進めつつ、これからはもう少し自分の時間を作り、新しいことにチャレンジしたいと岸本さんは望みます。その一つが絵画です。

「風景は描けても植物は難しくて、まだ自信はありません。でも、いつかは外で咲く一輪の花だけではなく、自分でフラワーアレンジした作品も描きたい。そして、その技術をフラワーデザイン教室のメンバーにも伝授したいです」

これからも花に囲まれて暮らしたいと願う岸本さん。人生の楽しみはまだまだ続きます。(※第8回「泡盛『残波』社長は復帰っ子」はこちらです)
 

沖縄の日本復帰から今年の5月15日で50年を迎えます。急速に進んだ社会インフラ整備や、観光業を軸とした経済成長など、プラスの側面もあれば、米軍基地を巡る政治問題や、貧困や暴力などの社会問題も依然としてはびこっています。

こうした“大きな”テーマについては、日ごろからメディアで大々的に報じられたり、有識者などに評論されたりすることが絶えませんが、他方で、実際に沖縄の地で暮らす“普通”の人々の考えや本音、本土復帰がもたらされた変化などについては、あまり知り得ることができません。少なくとも本土にいる私たちの耳にはほとんど届いてきません。

しかしながら、彼ら、彼女らこそが沖縄の社会や歴史を形づくっている当事者です。その生きざまにフォーカスすることで、見えてくる沖縄像があるはずです。本土復帰50年という節目を迎え、ぜひそこに迫りたい——。

そこで連載「10人の沖縄」では、沖縄で生まれ育った10人の視点からこの50年をひもときます。

もちろん、この10人のストーリーが沖縄を代表するものではありませんし、話を聞いた人の中には名だたる企業の経営者なども含まれているため、これが沖縄の庶民の声だと言うつもりもありません。ただ、できる限り一生活者の目線を大切にし、その時代の息遣いが感じられるように、等身大の沖縄を伝えていきたいと考えています。

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