連載
#2 10人の沖縄
5セントのファンタが本土復帰後は……50年前の大学生が感じた混乱
「結局、就職浪人しました」
「一浪して、1972年に琉球大学に入りました。4月1日の入学式は、琉球政府立の大学だったけど、5月15日を境に国立大学に変わりました。僕らがラッキーだったのは学費が安かったこと」
金城さんは、沖縄が本土復帰した時の思い出をこう回想します。
金城さんが大学1年生のときの学費は半年間で15ドル。復帰後の後期分は1ドル=305円で換算されたため、年間で1万円弱でした。それは卒業するまで同額でした。
復帰後に入学した学生は、国立化されたことで学費が10万円、20万円と徐々に値上げしていったことを考えると、絶妙なタイミングでの入学でした。
学費については多少の得をした金城さんでしたが、ドルから円に通貨が変わったことで、日常生活では物価の上昇を感じずにはいられませんでした。
「高校時代は毎日25セントで足りていました。通学のバス代が往復10セント。瓶のファンタが5セントで、学食の沖縄そばが10セント。ところが、大学に入り、日本に復帰した後は、そばなんて300円では食べられませんよ。ファンタもだいぶ高くなりました」
気づかないうちにいろいろなものの値段が上がっていました。今思うと、便乗値上げもかなりあった気がすると金城さんは感じています。
通貨の切り替えは沖縄社会全体にも混乱をきたしていました。それはすでに復帰前から始まっていました。1971年の「ニクソンショック」によってドルが固定相場制から変動相場制へと移行したため、ドルを保有する沖縄の人たちの不安が高まったのです。
「ドルが360円から305円になったら、持っているお金が2割くらい目減りします。これは大変なこと」
沖縄の人たちへの影響を緩和するため、国による優遇策が打ち出されることに。それが71年10月9日のいわゆる「通貨確認」です。住民の銀行預金や手持ちの現金を対象に、ドルの下落分を個人に限って補填する手続きが行われました。
「保有するドルを金融機関に持っていくと、鉛筆の消しゴムの部分に朱肉をつけて、お札に赤い丸が押印されます。二重提示、三重提示しないように。県内のドル紙幣はほぼ点検したはずです」
これによって日本政府は約300億円の差額を補填しました。
このことに関連して、面白い話があると金城さん。復帰前のドル硬貨は純銀で価値があったため、多額の硬貨を保有している人もいました。ドル硬貨には朱印を押せないため、あちこちの金融機関を回っては硬貨を提示して、ひと財産を築いた人もいるそうです。
在学中に本土復帰を迎え、大学名称が変わるという珍しい体験をした金城さんでしたが、実は、このタイミングで大学生になった沖縄の人たちは景気の乱高下に翻弄されます。
復帰の翌1973年にはオイルショックが起き、消費が低迷するなど日本経済に打撃を与えます。さらには、1975年に国際的なイベント「沖縄国際海洋博覧会」が沖縄本島北部の本部町で開かれます。
沖縄の経済成長の起爆剤にするべく、日本政府は多額の費用を投じて、道路や空港、水道などの社会インフラ基盤を一気に整備しました。また、海洋博に伴う観光需要を見込んで、県内外企業によるホテルなどの建設ラッシュが続きました。
ところが、蓋を開けてみると、500万人という目標に対し、来場者数は350万人にとどまったほか、過剰な投資によってイベントが終わるや否や、ホテルや観光施設などは軒並み廃業しました。
いわゆる「海洋博不況」です。ちまたでは、海洋博は経済成長の起爆剤ではなく自爆剤になったとの話も出ていました。
一連の出来事は、大学卒業を控えた金城さんの身に、火の粉となって降りかかります。
「海洋博が終わると、沖縄はものすごく不景気になって、とても就職できる状況ではなかったです。私は工学系なので、県内就職となると、大手は沖縄電力か電信電話公社。当時の沖縄電力は学生をとりませんでした。電信電話公社の新卒採用はありましたが、全国区で沖縄枠はない」
「結局、就職浪人しました。超氷河期ですよ。復帰してからしばらくは、いい思い出があまりないのが本音です」
就職できずに悶々とした日々を過ごしていた金城さんでしたが、縁あってコザ信用金庫に入庫することになりました。1978年のことです。
電気工学部出身だった金城さんにとって金融業界の仕事は門外漢でしたが、当時の理事長が預金・融資業務のオンライン化を推進していたため、システム部門に配属されました。
「機械いじりが好きで、当時のコンピュータには苦手意識がありましたが、仕方なしに開発などをやっていました。世の中の情勢がどうなっているかなど分からないまま、15~16年くらい従事しました」
その間に日本はバブル期に突入し、沖縄社会も狂喜乱舞していましたが、金城さんはシステム開発という社内に閉じた業務をしていたため、景気の盛り上がりを肌で感じることはなかったそうです。1996年ごろに営業店へ支店長として異動となりましたが、もうバブルは弾けて景気は低迷していました。
「入庫してからは自分のことで一生懸命でした。復帰してから沖縄の皆さんも頑張っていたと思いますが、ある意味で社会や経済の動きに関与することはできませんでした。振り返っても本当に何も出てきません」
ただ、その後は沖縄経済や、県内の中小企業に深く関わる立場になり、沖縄に対する見方も広がりました。金城さんは今の沖縄をどう考えているのでしょうか。
「経済的にはまだ弱いです。本来なら沖縄に落ちるべきお金が本土に持っていかれています。まさにザル経済です」
その課題を解決するためには、県内企業が力をつけることが最優先で、それこそが信用金庫の役割だと金城さんは言い切ります。
「復帰して50年経った今でも、外に目が向いている沖縄企業は少ないです。まだ地元志向から抜け出せていません。当金庫は東京都信用金庫協会に加盟しているわけですが、東京の皆さんのビジネスのやり方を見ていると非常に勉強になります。外の世界を見ることの大切さを沖縄企業にも伝えていきたい」
外の世界との接点という意味では、金城さんが生まれ育ったコザは、常に米国の存在がありました。
両親が土産屋をセンター通り(現在の中央パークアベニュー)で経営していたこともあり、幼少のころから米国人が周囲にたくさんいることに違和感はありませんでした。
「僕らは彼らのことを『アメリカー』と呼んでいました。フレンドリーで子どもには優しかったです」
米国人はクリスマスなどの記念日に家族や友人へ贈り物をする慣習があり、金城さんの実家の土産屋では、着物やオルゴールなどがよく売れたそうです。
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