連載
#19 #戦中戦後のドサクサ
「みょうちくりん!」名字笑う男子に先生は…戦中に少女が抱いた感謝
昭和の混乱期に光った大人の優しさ
戦時中、多くの人々が貧しい暮らしを送り、社会は混乱しました。そんな中でも、家族を支えつつ、学校に通い続けた少女がいます。食糧難を始め、苦労が多い時代を懸命に駆け抜けた、実在の女性の半生について、漫画家・岸田ましかさん(ツイッター・@mashika_k)が描きました。
時は、世の中が戦争一色だった1940年代前半。東京・足立に住む、主人公の少女アキコは、国民学校に通う少女です。父母と5人のきょうだいと暮らしています。
彼女が送った日常について、連作漫画形式でご紹介します。
アキコの父は戦時中、東京の水道局に勤務していました。朗らかで実直な性格ゆえ、同僚や友人からの信頼も厚い人物です。背が高く、ガッシリした体つきで、健康そのものでした。
しかし目が悪く、兵役検査の視力テストでは「見えません」を連発。検査官から「戦争に行きたくないだけだろう!」と殴られてしまいます。最終的には、召集を免れる代わりに「兵隊になる男子をたくさんつくれ」と言い放たれました。
「まったく悔しかった……!」。父は無念の思いを忘れずに生き、やがて5男1女を授かります。当時のアキコにとって、たくさんの子どもをもうけた父母は誇りでした。ちなみに戦後、更に双子の弟と妹が生まれるのは、また別の話です。
母は恵比寿と目黒で運送業を営む家に生まれ、比較的裕福な暮らしを送っていました。家事全般が苦手だったため、長女のアキコが代役を果たし、炊事や洗濯を担うこともしばしばでした。
母が産気づいたとき、産婆さんを呼びに行くのはアキコの仕事。弟たちの出産に立ち会うばかりでなく、取り上げるのを手伝うことさえありました。そのお陰で、どんなタイミングで分娩(ぶんべん)するかといった知識を蓄えていったのです。
一方、お世話になった産婆さんにサツマイモを贈るなど、母には要所要所での気遣いを忘れない一面がありました。物不足の時代でも、他人を思いやれる、優しい女性だったのです。
アキコが国民学校に通っていた頃、男子は「未来の兵隊さん」と見なされていました。家事をしなくてもいいなど、女子と比べて色々な面で優遇されていたのです。
反面で、過酷な境遇に置かれることも少なくありません。将来、国を背負う立場ゆえ、大人たちから厳しいしつけを受けていたからです。アキコ自身、その事実に触れた経験があります。
例えば学校で、女子が何らかのトラブルを起こしても、先生から怒鳴られる程度で済みます。一方、男子が当事者だった場合、階段から突き落とされるなどしていました。アキコも何度も現場を目撃し、社会のありようを学んだのです。
アキコの父は秋田出身で、名字を「明珍(みょうちん)」といいます。甲冑(かっちゅう)を作っていたとされる先祖を持つ、由緒正しい家です。しかしアキコが住む東京の人々にとって、なじみが薄い一族でした。
そのため、学校の同級生から、からかわれることもしばしば。「みょうちくり~ん!」「外国人か?」。バカにしてくる男子の言葉に、アキコが必死で耐えていると、先生がすかさず拳骨(げんこつ)を食らわせます。
「時代が時代なら、お前たちがお辞儀をしなきゃならないような、高貴な家柄だぞ!」。名字の歴史的経緯を察し、擁護してくれる先生に、アキコは感謝していました。
しかしその先生も召集を受け、出征時に乗った船が撃沈され、帰らぬ人となったのです。
終戦後、17歳のアキコは、勤め人になっていました。当時は社会全体が貧しく、着る物に困る人も多かった時代です。華道や和裁に親しむ女性が多い中、自分の洋服を作ろうと思い立ちます。
洋裁学校に通い始め、終業後に技術を学ぶ日々。問屋で布地を買い、親戚の女の子にセーラー服を仕立てるなど、めきめき腕を上げていきました。おしゃれなドレスを作り、同世代とのパーティーにも参加し、青春を謳歌(おうか)したのです。
24歳で結婚し、やがて3人の息子を授かったアキコは、幸せな日々を送りました。そして戦争の記憶が遠くなった今もなお、「生まれ変わっても、きょうだいになろうね」と弟と誓い合った幼少期が、時折思い出されるのです。
一連のエピソードは、東京都内在住の女性(90)から直接聞き取ったものです。実際に耳を傾けた岸田さんは「記憶が非常に鮮明で、色々な思い出を語って頂けた」と喜びます。
その上で、女性の家族が無事に終戦まで生き抜き、互いに愛し合っていた点に触れ、「安堵(あんど)せずにはいられない」と感慨を述べました。
「女性が戦中戦後に抱いた喜怒哀楽は、全て当時の価値観と密接に関係しています。今から振り返ると、不思議なところが多いかもしれませんが、そうした時代間のズレも感じて頂けたらと思います」
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