連載
#16 #戦中戦後のドサクサ
玉音放送直後に消えた母…空襲を生き延びた一家の「戦争の終わり」
秋田と東京を往復した少女が見た光景
昭和20(1945)年5月。13歳の少女アキコは、戦争の激化に伴い、生まれ育った東京・足立から、父の故郷である秋田に疎開しました。
親戚宅を間借りし、母と3人の弟との計5人暮らし。家主の畑仕事を手伝っても食べ物をもらえないなど、生活環境は過酷です。しかし一家にリンゴをこっそり分けてくれる伯母、魚を配給する漁師など、親切な人々の助けを得て食いつなぎました。
学校での授業は、東京と同じく、空襲を想定した避難訓練が中心です。帰宅後は家事に明け暮れる日々を送って約2カ月、親戚に招かれた父もやってきました。秋田米をほおばれる幸せな時間もつかの間、東京の職場から呼び出されてしまいます。
足立に残った長男・次男の面倒を見るため、アキコは父より先に帰京しようと決めました。
スイッチバック方式で峠を越える鉄道に揺られ、目を回しつつ過ごすこと一昼夜。たどり着いた東京は、疎開前以上に、ものものしい雰囲気に包まれていました。
「そっちの駅には憲兵がいる! やめとけ!」。道を歩いていると、通行人から声をかけられました。駅周辺に張り込み、市民から食糧を奪い取る憲兵のうわさが、まことしやかに語られていたのです。
「一駅歩いて会わないようにしましょう……」。アキコたちも、注意深く移動するしかありません。
しばらくして、父と入れ替わりで秋田に戻ったアキコでしたが、思わぬ体験をします。家族が住んでいるはずの親戚宅が、もぬけの殻になっていたのです。近隣住民に聞き回ると、港近くに引っ越したことがわかりました。
ようやく母やきょうだいと再会できたものの、すぐさま更なる困難に見舞われます。1945年8月14日、後に「日本最後の空襲」と呼ばれる、「土崎空襲」に遭ったのです。
ところが、母は乳飲み子の弟を抱えたまま、家の中から動こうとしません。「お母さん! みんな山に逃げてる!」。アキコが必死で避難を呼びかけます。
「東京から逃げたのに……」「ここでもだめなら、もういいね。ここにいよう」。観念した表情でつぶやく母の姿に、子どもたちは、その場にとどまることを決めました。
事態は意外な展開をたどります。アキコの家の周辺に、ほとんど被害がなかったのです。米軍が、山側に建つ製油所を標的としていたからでした。爆破された石油貯蔵庫近くまで移動した人々は、体中油まみれになりながら、街に戻ってきました。
そして8月15日、アキコたちはラジオで玉音放送を聞き、日本の敗戦を知ります。その直後、こつぜんと姿を消した母。ほどなく、家族全員分の鉄道切符を手に帰ってきました。
「全員の切符買ったわ」「すぐ東京に帰りましょう!」。こうして、アキコ一家の戦争は終わりを迎えたのでした。
今回のエピソードは、東京都内に住む女性(89)の実体験が基となっています。
長女だった女性は戦時中、母親と同じように、きょうだいたちを気にかけていました。往時について聞き取った岸田さんは、「まさに『小さな主婦』である」と感じたそうです。
「女性が家の仕事をする。それが、長女として当然の務めであるかのように語って下さいました。現代の私から見ると、大変な使命感と誇りを持っていると感じられました」
令和的価値観に照らし、違和感を覚える人もいるかもしれません。しかしアキコのモデルになった女性のように、家族を守ろうとした「ふつうの人々」の努力が、社会の基礎を支えていたことは、忘れられてはならないと思われます。
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