連載
#4 記憶をつなぐ旅
バウムクーヘン発祥の島に突如おりてきた指令「患者受け入れ準備を」
77年前、1万人が運ばれてきた惨劇
日本のバウムクーヘンの発祥の地――。そんな風に呼ばれる、広島湾に浮かぶ似島。伝染病の流入を防ごうと19世紀末以降、軍人たちの検疫所が設けられ、捕虜収容所も設置されていました。遠足などで訪れ、自然に親しむ子どもたちも多い島。77年前の朝、ある指令がおりてきて、壮絶な光景が広がったといいます。
似島は広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほどで到着します。富士山に姿形が似た山「安芸小富士」があり、「似島」と呼ばれるようになったともいわれます。
似島の「学園桟橋」という船着き場で、似島に住む宮崎佳都夫さんと待ち合わせました。
似島が戦争に利用されたのは1895年、検疫所が設けられたのが始まりです。コレラなどの伝染病が本土に入ってこないように、戦闘地域から戻ってきた軍人や軍属の検疫所がつくられました。
まず宮崎さんが連れていってくれたのは、第一検疫所が使っていた2本の桟橋です。日清・日露戦争以降は帰還兵の出入りに使われました。
釣りスポットでもある似島は、海沿いの道で多くの釣り人が糸をたらしていました。サイクリングで訪れる人も多いといいます。
島の北部に進むと、検疫所で出た感染物などを焼却する炉の煙突が残っていました。波に削られ、木に埋もれており、宮崎さんの案内で訪れなければ、その歴史に気づくことは難しいと感じます。
宮崎さんは「海に多くの船が見え、押し寄せるように負傷者がやってきたそうです」と振り返ります。大やけどを負った女性や子どもがたくさんいたそうです。
あっという間に検疫所は被爆者であふれ、すのこの上や軒下、木の下にも患者が横たわりました。
やけどや外傷のない患者にも、血便や高熱といった症状が起き、それが後に「急性放射線障害」だったと判明します。
当時、診療に当たったのは旧暁6165部隊。隊長を務めた軍医の西村幸之助氏は、こんな言葉を残しています。
被爆者の遺体を火葬するのもままならず、検疫所の近くにまとめて埋められました。戦後、焼却炉周辺からはたくさんの遺骨が掘り起こされました。その焼却炉のひとつが、臨海少年自然の家の一角に移設されています。
◆広島・似島の旅の楽しみ
似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘンを焼き上げる体験ができます。入り口に「菓子伝説の地へようこそ」との看板がありました
似島臨海少年自然の家の展示コーナー。似島の歴史を学ぶことができます
広島市内ではさまざまなお好み焼きが楽しめます
◆この記事は、withnewsとYahoo!ニュースの共同連携企画です。
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