青々と茂った木々が目に鮮やかで、白い砂と透き通った海のコントラストが美しい沖縄・伊江島。ダイビングスポットとしても人気で、ハイビスカスやユリが美しく、自然豊かな島です。しかし、77年前には「沖縄戦が凝縮した」とも表現される「六日戦争」が繰り広げられました。ロシアのウクライナ侵攻のニュースが連日流れるなか、島を巡りながら「戦争」を考えました。
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連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
伊江島は、沖縄本島からフェリーで30分。ジンベエザメで有名な「美ら海水族館」のある本部町の港から出航します。
島に近づいていくと、伊江島のシンボルでもある、とんがり帽子のようなかたちの「城山(ぐすくやま)」が見えます。
フェリーから見えた伊江島。城山を除くとほぼ平坦な地形です=2022年3月、水野梓撮影
ダイビングスポットとしても人気で、4月後半から5月にかけてユリが咲き誇り、今年は3年ぶりに
「ゆり祭り」(4月29日~5月5日)が開かれるそうです。
伊江港に着くと、土産物屋の入るオレンジ色の建物が出迎えます。レンタカーを借りて、島をぐるっと回ってみました。
あいにくの曇り空でも、白い砂浜と透き通った海に目にまぶしく感じます。
ヌチドゥタカラの家から車で数分のところには観光スポットとして有名な「伊江ビーチ」があります。きれいな白い砂浜に、ブランコやフォトスポットもありました=2022年3月、水野梓撮影
こんなに美しい自然が楽しめる伊江島。しかし77年前にはアメリカ軍が上陸し、6日間の苛烈な戦争が繰り広げられました。
当時島に残っていた住民も巻き込まれ、およそ半数にあたる1500人も亡くなりました。
港から車で5分ほど。島の中心部には、その戦闘の激しさを体現する当時の建物「公益質屋跡」が残っています。
島の中心部にある公益質屋跡。補強されて残り、当時の戦闘の激しさを物語ります。振り返ると港の方が見え、当時は遮るものがなかったのだと想像できます=2022年3月、水野梓撮影
「城山」のふもとのこの周辺が、島で一番の激戦地でした。当時の建物で残っているのはほぼこれだけです。
質屋跡から車で数分の「芳魂之塔」には、戦死した日本兵2000人と住民1500人が合祀されています。
今回、島に同行してくれた漫画家の新里堅進さん(75)は、昨年8月に漫画『死闘伊江島戦』(琉球新報社)を出版。体験者の手記や米軍の記録などをもとに克明に描き出しました。
軍官民が一体となった伊江島の戦い=新里さんのマンガ『死闘伊江島戦』より
日本兵も住民も男女問わず、手投げ弾や竹やりを手にアメリカ兵に突撃しました。米軍側にも200人ほどの死者が出たといいます。
新里さんは「両軍入り乱れて戦い、最後には村の女性も竹やりを手にアメリカ兵へ向かっていきました。こんなに住民が軍と一体となって戦ったところは伊江島のほかに思い当たりません」と話します。
4月21日に米軍が伊江島の攻略を宣言した後も、住民たちは避難した洞窟(ガマ)での集団自決(強制集団死)によって命を奪われました。
島の東側にある「ハイビスカス園」から車で数分。今も残る「アハシャガマ」では、4月22日、日本兵が機雷とともに飛び込み、避難していた住民たちを巻き込んで約150人が亡くなりました。
ゴルフ場のすぐそばの細い道路沿いに残るアハシャガマ=2022年3月、水野梓撮影
ほかの離島や沖縄本島のガマでも、家族や住民同士が互いに殺し合う集団自決は起こっています。
本島の読谷村のチビチリガマでは83人が集団自決で死亡し、一方のシムクガマではハワイからの帰国者が避難した人々を説得して1000人の命が救われました。
「アメリカ軍に捕まったらもっとひどい目に遭う」といった〝教え〟が、いかに浸透していたかを考えさせられます。
持ち上げると子宝に恵まれるとの言い伝えがある「力石」がある伊江島のニャティヤ洞。戦時中、多くの人が避難したため千人洞とも呼ばれます=2022年3月、水野梓撮影
さらに、命からがら地上戦を生き延びた住民たちも、厳しい生活を強いられました。慶良間諸島に強制移送され、食糧難に苦しみ、命を落とした人もいたといいます。
伊江島は日本軍にとっても、アメリカ軍にとっても重要な場所でした。
日本は南方への中継地にしようと1944年、住民を動員して〝東洋一の飛行場〟をつくります。しかし、米軍に奪われることを恐れ、ほとんど使わないまま翌年3月に爆破してしまいます。
島西部のアメリカ軍補助飛行場跡地。日本軍は伊江島を南方への中継地にしようと〝東洋一の飛行場〟をつくりましたが、アメリカ軍上陸の直前に爆破。アメリカ側は九州侵攻への足がかりにしようと考え、占領後に物資を集めて飛行場を作りました=2022年3月、水野梓撮影
伊江島を占領したアメリカ軍は、住民がいなくなった後すぐに飛行場建設に着手。伊江島を、九州侵攻への足がかりにする考えだったといいます。
強制移送された住民たちが2年ぶりに島へ戻ったときには、米軍の基地のほかには、家も畑もなかったといいます。
太平洋戦争が終わっても、伊江島の苦難は続きました。
1948年には、米軍の上陸用舟艇(LCT)の未使用砲弾などが荷崩れを起こして港で爆発。伊江島の住民たち107人が亡くなり、戦後最大の事故となりました。港のすぐそばに慰霊碑が残っています。
島の地図を見返すと、西側の大きな部分を「立ち入り禁止」の米軍演習場基地が占めているのが分かります。
基地のフェンスのすぐそばの畑には、紅芋タルトの「生産地」を示す看板がありました。
沖縄のお土産「紅芋タルト」の生産地であることを示す看板は、米軍基地と隣り合っていました=2022年3月、水野梓撮影
私たちが沖縄土産として楽しんでいるお菓子が、基地と隣り合わせにあることを考えさせられます。
米民政府は1953年から沖縄で農民の土地を接収していきます。伊江島でも土地を奪われ、ブルドーザーで住宅が壊され、農作物が焼き払われました。
2019年に外壁などが塗り直された団結道場。基地のそばに建ちます=2022年3月、水野梓撮影
畑を耕し自給自足の生活を送ってきた伊江島の人びとは、「乞食行進」として沖縄本島を歩き、島の窮状を訴えました。この動きが、沖縄の土地を守っていこうとする活動「島ぐるみ闘争」の導火線になりました。
1961年には「伊江島土地を守る会」が結成され、基地のそばに「団結道場」が建設されました。
島の西側では、畑やヤギ小屋のすぐそばに基地のフェンスがあります。立ち入り禁止との看板が掲げられていました=2022年3月、水野梓撮影
沖縄が日本に復帰した後も、伊江島に基地は残っています。
この日も団結道場のそばでは、米軍の航空機オスプレイが離着陸を繰り返していました。車の中にいても、うなるような音が聞こえてきました。
観光スポットでもある伊江ビーチから車で数分のところには、「命こそ宝(ぬちどぅたから)」を掲げる反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」があります。
非暴力で土地返還闘争の先頭に立ってきた故・阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが私財を投じて開きました。
戦中や戦後の住民・米軍の服、生活用品、薬莢(やっきょう)などが展示されているヌチドゥタカラの家=2022年3月、水野梓撮影
資料館のQRコードを読み取ると、阿波根さんの声で録音した解説を聞くことができます。
阿波根さんは20年前に101歳で亡くなりましたが、右腕として働いてきた謝花悦子さんがヌチドゥタカラの家の館長に就任。今も訪れる人に平和を訴えています。
「ロシアが侵攻して、また核が使われるかもしれないという危機も高まっている。戦争は人災だから人が止められるのに。とにかく今、焦っている」と話します。
阿波根さんの右腕として活動してきたヌチドゥタカラの家の謝花悦子館長=2022年3月、水野梓撮影
「『平和の武器は学習だ』と阿波根も言ってきた。戦争でどういうことが起きたか、子どもたちに残していかないと。知らないと、だまされてしまう」
沖縄戦を漫画で描いてきた新里さんも、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを重い気持ちでとらえます。
「これが第三次世界大戦の引き金になるかもしれない。そうしたら基地のある伊江島はまたやられてしまうかもしれないですよ。未来の保証は誰もできない」と声を落とします。
77年前、城山のふもとから見える沖縄本島までの海をアメリカ軍の軍艦が埋め尽くし黒々としていたといいます。ここで「伊江島を描こう」と決めたという新里さん=2022年3月、水野梓撮影
新里さんのマンガ『死闘伊江島戦』はこう締めくくられています。
現在も凜としてそびえ立つ城山
戦争と平和 どちらを選ぶか
城山は 現在を生きるわれわれに問い掛けているのかもしれない
伊江島が再び戦場となることがないよう、自分にできることは何なのか。向き合っていきたいと感じました。
<伊江島へのアクセス>
沖縄本島北部・本部町の本部港まで車で約1時間半。
那覇市からは、那覇空港発の「沖縄エアポートシャトル(リゾートライナー)」や「やんばる急行」「系統番号117番高速バス(美ら海直行)」も利用可能で、所要時間は2~3時間ほど。
本部港からはフェリーで30分ほどで、島ではレンタカーやレンタサイクルも利用可能。