大やけどを負った被爆者が上陸してきた桟橋「野戦病院」となった似島
船で運ばれてきた被爆者たちが似島に上陸した桟橋の場所。似島臨海少年自然の家の近くにありますが、説明板などはなく、一見するとふつうの桟橋です=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島の山中に残る貯水槽の跡地。検疫作業には水を使うため、山水をためておく「貯水槽」がつくられ、そこから軍用の水路がひかれていたそうです=2021年11月 出典:水野梓撮影
ガードレールのそばに立つ煙突。のぞき込むと、下部は波に削られ、今にも倒壊しそうでした=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島に運ばれた被爆者は焼却炉で火葬され、周辺ではたくさんの遺骨が掘り起こされました。原爆の悲惨さを伝えるため、1基が「似島臨海少年自然の家」に移設・保存されています=2021年11月 出典:水野梓撮影
広島港から眺める似島。「富士に似た島」として「似島」と呼ばれたともされる安芸小富士が見えます=2021年11月 出典:水野梓撮影
戦跡は「学園桟橋」側に集中していますが、1日に3回しか発着しないため注意が必要です=2021年11月 出典:宮本聖二撮影
第一検疫所の桟橋。消毒前の帰還兵が使う桟橋、検査が終わって消毒済みの兵が使う桟橋と、2本で用途を分けていたといいます=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島のフェリーの船着き場そばにある〝戦跡〟。古そうですが一見しただけでは何のトンネルか分かりません。「弾薬庫」に通じていた通用トンネルの跡だといいます=2021年11月 出典:水野梓撮影
第一検疫所は改修された後、弾薬庫などとして使われました。その通用トンネルがフェリーの発着場すぐそばに残っています=2021年11月 出典:水野梓撮影
弾薬庫の周囲を監視する歩哨所。山中にぽつんと残っていました=2021年11月 出典:水野梓撮影
海沿いの道から林に分け入ると、弾薬庫に通じていたトンネルが残っています。弾薬庫は2002年に取り壊されてしまいましたが、桟橋までトロッコレールがひかれ、弾薬を出し入れしていたそうです=2021年11月 出典:水野梓撮影
診療にあたった旧暁6165部隊の生存者が建立した慰霊碑。部隊は病院船で傷病兵を輸送したり診療したりしていましたが、似島で野戦病院を開設し1万人もの被爆者を診療・介護したとされます=2021年11月 出典:水野梓撮影
被爆者が当時の様子を描いた絵で説明する宮崎さん。医薬品はすぐに底をつき、夏の蒸し暑さでやけどやけがの症状はどんどん悪化。苦しさのあまり「死なせてくれ」と海に飛び込もうとする患者もいたといいます 出典:水野梓撮影
検疫所の井戸。被爆者の救護にも使われました。水を求めていた被爆者のために、平和記念式典の「献水」としても使われています=2021年11月 出典:水野梓撮影
1971年には似島中学校の周辺から被爆者517体の遺骨が発見されました。犠牲者に祈りを捧げるため、隣接するように建てられた慰霊碑=2021年11月 出典:水野梓撮影
偶然、資料館を訪れた人に説明することもあるという宮崎さん=2021年11月 出典:水野梓撮影
ふさがれている防空壕跡。臨海少年自然の家にはたくさんの入り口が見られます。防空壕は、亡くなられた被爆者の遺体安置所にもなりました=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島には特攻隊の拠点もありましたが、存在は機密事項で隠されていました。この桟橋を軍が利用していたそうです=2021年11月 出典:水野梓撮影
1945年、検疫所の職員たちが「千人塚」を建立、その2年後に発掘された遺骨を収集して「広島市戦災死没者似島供養塔」の墓標を建てて合祀されました。今は埋もれてしまっています=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島第一検疫所の創設のために尽力した「後藤新平の像」が、「似島学園」の敷地内に残っています。戦時中の金属供出を逃れるため、切断されて隠されていたといいます=2021年11月 出典:水野梓撮影
似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘンを焼き上げる体験ができます。入り口に「菓子伝説の地へようこそ」との看板がありました 出典:水野梓撮影
似島臨海少年自然の家の展示コーナー。似島の歴史を学ぶことができます=2021年11月 出典:水野梓撮影
VRツアーを案内するメアリー・ポピオさん。大学生の時に資料館を訪れ「人生が変わった」と振り返ります 出典:水野梓撮影
レストハウスの地下室。ここにいた野村さんはひとりだけ生き残りました 出典:水野梓撮影
PCVのガイドは有料で開催しているのが特徴です 出典:水野梓撮影
VRツアーを体験する記者。原爆投下の瞬間は思わず声がもれました 出典:宮本聖二撮影
レストハウスで唯一生き残った野村さんについて説明するメアリー・ポピオさん 出典:宮本聖二撮影
相生橋でもゴーグルをつけてVRツアーを体験しました 出典:宮本聖二撮影
出典:水野梓撮影
アプリを開発するなど、被爆者の記憶をつなぐにはテクノロジーが大切になると話します 出典:水野梓撮影
ツアー後に感じたことを書いてもらう付箋 出典:水野梓撮影
平和記念公園を案内するヒロシマピースボランティアの多賀俊介さん 出典:水野梓撮影
多賀さんが「ここまで足を伸ばしてほしい、大切な場所」と話す原爆供養塔 出典:水野梓撮影
資料館そばに移植された被爆アオギリ 出典:水野梓撮影
多賀さんが必ず案内するという韓国人原爆死没者慰霊碑。「なぜここで朝鮮半島の人々が亡くならなければならなかったか考えてほしい」 出典:水野梓撮影
もとは「中島地区」という繁華街だった平和記念公園。材木町のパネルの前で説明する多賀さん 出典:水野梓撮影
レストハウスでは、当時の「中島地区」のジオラマが見られます 出典:水野梓撮影
被爆前の写真と比較して原爆ドームについて説明する多賀さん 出典:水野梓撮影
慰霊碑のまわりには、水を求めてやまなかった被爆者の方々のために水がたたえられています 出典:水野梓撮影
長浦毒ガス貯蔵庫跡。600トンの毒ガスが貯蔵できるタンクがありました。戦時中は建物が見えないよう、前に高さ3~4メートルの小山が築かれていたといいます 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
島で働いていた人々も毒ガスの被害に遭い、後遺症に苦しめられたといいます 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
慰霊碑のかげから現れたウサギ。島のあちこち、毒ガス貯蔵庫の草むらからもウサギが現れてきます 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
ホテル「休暇村」のすぐそばに残る毒ガス貯蔵庫の跡地。皮膚がただれる猛毒の「イペリット」が貯蔵されていました。台座の上に人の背丈ほどの10トンのタンクが置かれていたそうです 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
大久野島毒ガス資料館に展示されている防毒マスク 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
砲台跡には、毒ガス工場時代にタンクを置いていた基礎部分が残っています 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
毒ガス製造で使われたとみられる陶器なども散乱しています 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
旧日本軍が終戦後に中国で遺棄した毒ガスがそのまま残り、知らずに缶を開けるなどして中国人が被害に遭う事故も起きています。山内さんは「毒ガスの問題はまだ終わっていない」と言います 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
毒ガス工場の電力を発電していた発電所跡。増築して計8台の発電機があったそうです 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
現在は広場となっているところには工場群がありました。近くに研究室跡と検査工室跡が残ります。ウサギなどが毒ガスの実験動物として使われていました 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
火薬庫は、頂上に続く道とともに2018年の土砂崩れで地中に埋もれてしまいました。環境省制作のパネルも見えません。山内さんは「このままの姿でも残してほしい」と訴えます 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
山内さんは中国・瀋陽で生まれ。赤ちゃんの頃に引き揚げてきました。毒ガス被害に遭った中国人との交流も続けています 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
毒ガスを使ったり遺棄したりといった「加害」、毒ガス工場で働いた人々の被害の歴史も学べる場です 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
JR忠海駅すぐそばの忠海港。対岸に大久野島が見えます。フェリー乗り場には無料の駐車場があります 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
島にはウサギの耳のかたちをした「集音器」も。風や波、船の汽笛の音が聞こえます 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
竹原・三原周辺の名産はタコ。ホテル「休暇村」のカフェエリアで食べられる「たこ天うどん」でおなかを満たせます。休暇村には日帰り温泉もあります 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影
JR三原駅のコンビニで売っていた駅弁「たこめし」も具だくさんで美味です。尾道からもほど近い大久野島。島の観光とあわせて、戦跡へ足を伸ばしてみてはいかがでしょうか 出典:「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟/水野梓撮影