連載
#4 #自分の名前で生きる
夫婦同姓と夫婦別姓、どっちも経験して感じた疑問、これって誰得?
日本での議論で「決定的におかしい」こと
「選択的夫婦別姓」が導入されていない日本でも、「別姓」を使える場合があります。外国人と国際結婚することです。筆者は、日本人との結婚後に離婚、そして国際結婚をした今、姓を変えないまま夫婦を続けています。「夫婦同姓」と「夫婦別姓」両方の体験から、日本の姓を巡る違和感について考えます。(ライター・春奈)
現在の日本では、日本人同士が結婚した場合、法律上「夫婦別姓」は認められていません。事実婚であれば結婚後も旧姓を名乗ることができますが、日本人同士の結婚の場合、戸籍上の名字ではありません。
では、なぜ筆者が「夫婦別姓」なのかというと、夫が外国人だから。日本人であっても、外国人と結婚する場合は例外的に「夫婦別姓」を選ぶことができるのです。
日本では、女性のうち9割が夫の姓に改姓するので、以前の職場などで「春奈さんって、本名は外国の名字なの?」と聞かれたことがありますが、筆者は結婚後も改姓していないので、実家の両親と同じ日本の名字です。
国際結婚をしていても「夫婦別姓」を選ばずに、配偶者の名字を名乗る日本人女性は大勢います。しかし、筆者はあえて「夫婦別姓」を選びました。
その理由は、単純に名字を変更するのが面倒だったこと、筆者夫婦は将来にわたって日本で暮らしていくつもりなので、外国名よりも日本名を使うほうが何かと好都合だと考えたことです。
先日結婚4周年を迎えたので、筆者の「夫婦別姓歴」も4年を超えたことになります。実際に「夫婦別姓」を経験してみると、実に快適で合理的。
結婚しても今までと同じ名字で生活していけるわけですから、銀行口座やクレジットカード、パスポート、保険など、あらゆる名字変更の手続きに追われることは一切ありません。
日本人男性と結婚した際は配偶者の名字に改姓したので、結婚したときも離婚したときも、煩雑な改姓手続きに追われました。
「改姓手続き」というと、免許証やパスポートなど公的なものが真っ先に思い浮かびますが、公的な証明書類だけでなく、日ごろ利用している通販サイトの登録名も含め、あらゆる登録名を変更するのは意外と面倒なものです。
しかも、改姓手続きとなると住所やメールアドレス変更のように簡単に変更できるとは限らないため、当時は新しい名字が記載された本人確認書類を持参し、店舗に出向いて手続きを行わなければならない場面もありました。銀行口座の場合は、新しい名字の印鑑を作成し、登録印を変更する手続きも必要になります。
離婚後はまた結婚前の名字に改姓する手続きを行うわけですが、改姓手続きをしても、銀行の通帳は以前の名字に二重線が引かれ、訂正印が押されて結婚前の名字が記載されただけ。通帳の表面という目立つ部分に結婚当時の名字が残っているのを見て、もやもやした気分になりました。
筆者の場合、結婚で名字を変えることに抵抗感はなかったものの、離婚に伴う改姓手続きには精神的苦痛が伴う場面があったことから「こんなのは二度とゴメンだ!」と感じていました。
たまたま2度目の結婚相手が外国人だったため、「夫婦別姓」という選択肢があったわけですが、「夫婦別姓」なら、結婚しても以前と同じ名字でいられるので余計な手続きがいらずとても楽です。
基本的には「夫婦別姓」というスタイルに満足している筆者ですが、あえて「夫婦別姓」のデメリットを挙げるとすれば、「名字が違うけれど結婚している」ことを説明しなければならない場面があることでしょうか。
夫婦で引っ越しのあいさつなどに行った際など、「筆者たちは夫婦別姓なので、筆者の名字は〇〇ですが、夫は△△です」と、「夫婦別姓」であることを説明しなければならない場面があるのです。
法的に「夫婦別姓」が認められていない日本では、名字が違うと「このカップルは結婚していないのだな」と思われます。そして、なかには結婚せずに同居している男女に厳しい目を向ける人もいるため、「結婚していない」と誤解されると不都合なことも……。
そうならないよう、場合によって「名字が違うけど結婚している」ことを強調しなければならないときがあります。
とはいえ、「結婚していない」と誤解されることによって不利益を被る場面が日常生活でそう頻繁にあるわけではありません。
それを踏まえると、「夫婦別姓による具体的なデメリットはほぼない」と言えるのですが、「夫婦同姓」が当たり前の今の日本社会のあり方は、筆者のように一般的な枠組みから外れたマイノリティーとっては少々息苦しく感じるのも事実です。
日本で「夫婦別姓」についての議論がなされる際、必ずと言っていいほど挙がってくるのが、「夫婦別姓にすると家族の絆が壊れる」という意見。
実際に「夫婦別姓」を経験した筆者からすれば、この主張は「ナンセンス」としか言いようがありません。
「夫婦」というのは、血のつながった親や兄弟とは違って、もともとは赤の他人。「結婚」とは、その「赤の他人」が一緒に暮らし、ときには子どもを授かって、一緒に生きていくことです。
言葉にしてしまえば簡単ですが、実際に経験してみると、なかなか大変なこと。他人と人生をともに歩んでいく過程では色々なことが起こるので、日々のきめ細かなコミュニケーションを大切にし、意見の相違があれば徹底的に話し合うなど、地道な努力や相手への思いやりが欠かせません。
「夫婦同姓」で離婚し「夫婦別姓」になった筆者としては、「名字=絆」などと主張する政治家を見ると驚いてしまうのですが、「名字が違う」くらいで壊れるようなものは、本物の「絆」とは呼べないと思ってしまいます。
「家族の絆」というのは、「同じ名字をもつこと」によってではなく、日々の生活のなかで育まれるもの、ということ。確かに、名字というのは多くの人にとって単なる呼称以上の意味を持つ重要なものです。しかし、「夫婦の絆」や「家族の絆」という観点からいえば、「名字が同じであること」それ自体が絆を育むというわけではなく、日々の対話や相互理解の努力のほうがはるかに重要だと感じます。
名字が同じかどうかに関係なく、仲の良い夫婦もいれば仲の悪い夫婦もいるし、仲の良い家族もいれば、仲の悪い家族もいる。それだけのことです。
筆者自身、日本人男性との「夫婦同姓」の結婚はうまくいきませんでしたが、外国人男性との「夫婦別姓」の結婚は今のところうまくいっています。
身もふたもない言い方をすれば、「夫婦別姓」に対する異論なんて、しょせんは慣れの問題。「夫婦同姓」が当たり前だと思っているから「夫婦別姓」に違和感を覚えるのであって、「夫婦別姓」が普通になれば「そんなもの」として認識され、誰も反発しなくなるのではないでしょうか。
長年の結婚制度により、日本では「夫婦同姓」に対して何の疑問も持たない人が多いですが、法律で「夫婦同姓」が義務づけられている国は、世界を見渡しても日本くらいです。
2018年3月の衆議院法務委員会でも、「法務省が把握している限りでは、現在、婚姻後に夫婦のいずれかの氏を選択しなければならない夫婦同氏制を採用している国は、我が国以外にはございません。」との答弁が行われています。
世界的には、「夫婦別姓」や「複合姓・結合性(夫婦の名字をつなげる)」が認められている国が多く、「夫婦同姓」しか選べない、言い換えれば法律で「夫婦同姓」が強制されている日本という国はきわめて特異な存在なのです。
例えば筆者が住んだことのあるドイツでは、「夫婦同姓」と「夫婦別姓」「複合姓」の3種類から選択することができます。「複合姓」というのは夫婦の名字をつなげたもので、「ミュラー」さんと「シュナイダー」さんが結婚した場合、新しい名字は「ミュラー・シュナイダー」または「シュナイダー・ミュラー」となります。
※ただし、夫婦双方が複合姓にすることはできず、夫または妻のどちらか一方が複合姓を名乗ることになります。
国によって選択肢はさまざまですが、「夫婦同姓」または「夫婦別姓」を選べるというのが現代における世界のスタンダード。しかし、現在「夫婦別姓」や「複合姓・結合姓」が認められている国でも、昔からずっとそうだったわけではありません。
先ほど例に挙げたドイツの場合、かつては長らく、妻が夫の名字にするか、妻が旧姓と夫の名字をつないだ複合姓にするのが一般的でした。1970年代に民法が改正され、「夫の名字にするか」「妻の名字にするか」が選べるようになったものの、「夫婦の話し合いで名字が決まらない場合は、夫婦は夫の名字を名乗らなければいけない」という条件つきでした。
その後、1990年代に「男女平等でない」としてこの条文が無効に。1993年からは「夫婦の姓を定めない場合は別姓になる」として、「夫婦別姓」が認められるようになりました。
ちなみに、かのメルケル首相も「夫婦別姓」。しかも、現在の夫ではなく、離婚した前夫の名字を使い続ける形での「夫婦別姓」です。多くの日本人にとっては不思議に映る選択ですが、物理学の博士号を持つ研究者としてキャリアを積んでいたメルケル氏は、離婚してもあえて旧姓に戻さず、再婚してもそのまま名字を変えないという選択をしたのです。
メルケル首相の例は、個人のキャリアにおいて、自分の意思で名字を決められることの重要性を端的に示すものです。
ところが、日本の女性は、ドイツ人女性のように自由に名字を選ぶ権利は事実上ないに等しい状況です。「結婚にあたって女性が改姓しなければならない」という決まりはないにもかかわらず、96%のケースで妻が夫の名字に改姓しているという実態があるからです。
特に抵抗感なく夫の名字に改姓した女性もいれば、キャリアやアイデンティティーの問題から強い抵抗感があったものの仕方なく改姓した女性、一度は結婚して夫の名字に改姓したものの、耐えきれずペーパー離婚を選んで旧姓に戻した女性もいます。
名前が前に出る仕事をしている女性の場合、改姓によって「キャリアのリセット」に近い状態になってしまうことも。「名字」というのは、人によってはそれだけ深刻な問題なのです。
このような日本の現状に対し、国連女子差別撤廃委員会からは再三の改善勧告がなされていますが、いまだ日本で「選択的夫婦別姓」が実現する具体的な見通しは立っていません。
日本における「夫婦別姓」に関する議論において決定的におかしいのが、しばしば「夫婦同姓」か「夫婦別姓」の二者択一論的にとらえられていることです。
近年日本でも議論が活発になってきた「選択的夫婦別姓」は、「夫婦別姓を希望する夫婦はそれを選ぶことができる」制度です。
この制度が導入されたからといって、日本におけるすべての夫婦が「夫婦別姓」にしなければならないわけではありません。それなのに、政治家も含め、多くの人が「自分は夫婦同姓のままがいい」「自分は夫婦別姓を選ぶ」と、個人的な立場から賛成・反対を論じるため、「選択的夫婦別姓」に関する議論は感情的で嚙み合わないものになりがちです。
「夫婦同姓」と「夫婦別姓」の両方を経験した筆者として特に伝えたいのは、目の前にあるデメリットです。
今の日本では、「夫婦別姓」を希望する夫婦にその権利が与えられておらず、法律で「夫婦同姓」を強制されていることに悩む夫婦が少なからずいるという状況は、社会にとってデメリットの方が大きいのではないでしょうか。
一方で、「夫婦別姓にしたい」という人に、「夫婦が別々の名字を名乗る権利」を認めた時、明確なデメリットが生まれるとは思えません。「私たちは同じ名字を名乗りたい」という夫婦は、これまでと同じように「夫婦同姓」を選べばいいだけ。「夫婦別姓」を希望する人にその選択肢を与えたところで、「夫婦同姓」派には何の不利益もないはずです。
「夫婦別姓は子どもの不利益になる」という意見もありますが、その原因が、まさに「夫婦同姓」という制度にあるとするなら、「選択的夫婦別姓」が導入され、「正式な夫婦であっても別姓のカップルがいる」という状況が当たり前になれば、違和感はなくなるのではないでしょうか。
日本でも「選択的夫婦別姓」が実現すれば、「名字が同じ=結婚している」「名字が違う=(法的には)結婚していない」という判断は成り立たなくなるため、今のように別姓のカップルから生まれた子どもが特別視されることはなくなるはずです。
現状の強制的な「夫婦同姓」制度下においては、親(特に母親)が再婚や離婚を繰り返すことによって、親の都合で名字が何度も変わってしまう子どももいます。「選択的夫婦別姓」が導入され、親が離婚したり再婚したりしても親も子も名字が変わらないという状況が生まれれば、むしろ「夫婦別姓」が子どもにとってメリットになる可能性もあります。
国際機関からも再三の是正勧告を受けながら、遅々として「選択的夫婦別姓」が実現しない現状は、多様な生き方や価値観を認めようとしない日本社会の偏狭さの表れであるように思えてなりません。
いつまでも「名字=絆」という幻想で目を曇らせるのではなく、「夫婦同姓」の強制によって今この瞬間も苦痛を強いられている人にこそ目を向け、性別に関係なく、誰もが自らの名字を自分の意思で決められるようにする。このことこそが、多様な生き方や価値観を許容することにもつながっていくのではないでしょうか。
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