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津波で消えた街「普通の人」の10年「俺は何もできない」再建への道
弱気を吹き飛ばした知人の一言
もうすぐ東日本大震災の発生日、3月11日を迎えます。福島県相馬市に住む男性は、津波によって故郷を一度失いました。「それでも、海の匂いがする街に帰りたい」。そんな思いから、漁師町をよみがえらせようと、住民のリーダーとして力を尽くしてきました。これまであまり語られなかった、当地に住む「普通の人」の10年間。避難生活の不安を振り払い、流された住宅地の再生に動き出すまでの日々について、男性の手記「凡人の十年」を基に振り返ります。(withnews編集部・神戸郁人)
2011年4月。前月に相馬市沿岸部を襲った津波で、自宅兼店舗を失った理容師・立谷幸一さん(67)は、ある決意を固めました。「避難所で、散髪ボランティアを始めよう」
立谷さんは市外に避難していた約一カ月間、友人宅に泊まらせてもらうなど、様々な厚意を受けてきました。何とかして、恩を返せないか。そう考えるうち、意気消沈している住民のため、力になりたいとの思いを強めたのです。
散髪を必要としている避難所の紹介は、地元市議に依頼。そして中学校の体育館を会場に選び、避難先の住宅から、平日は毎日通いました。
理容店の常連客、近所の友人、息子の陽一郎さんが野球を教えていたスポーツ少年団の子どもたち……。多くの人々と、再会の喜びを分かち合いました。
陽一郎さんや散髪の心得がある友人、地元理容組合と、立谷さんの思いに賛同する人は徐々に増えていきます。複数の避難所で行うときもあり、多いときで一日100人以上の髪を切り続けました。
「しばらくぶりに動かすハサミの音に、私自身がうれしい気持ちになった」。立谷さんは当時の様子を、手記で振り返ります。
そんな中、住民たちの本音に触れる機会も、少なくありませんでした。「これからどうなるんだろう」「震災でなくなった街に帰れるのかな」。終わりの見えない避難生活に、誰もが不安をため込んでいました。
「でも、凡人の俺には何もできない」。無力感を抱いていた頃、知人の市議から、こんな言葉を投げかけられます。
「行政というところは、一人の被災者の言葉には、聞く耳を持たない。黙っていたのでは再建は進まないよ。思いを口に出さねば」
地域が一つになってこそ、俺たちは前進できる――。立谷さんは、自らが負うべき役割に気付きます。「役所に被災者への対応を訴えるための組織を立ち上げたい」と考えたのです。
避難所を連日回り、友人や知人に「街を復活させよう」と声をかけ続けました。1カ月間、一人の人物を毎日訪ね、説得したことも。努力のかいあって、6月には、市議や衆院議員を含む11人で「東部再起の会」の設立にこぎつけます。
津波が襲来した東部地区(海沿いの原釜・尾浜・松川各地区の総称)は、市が災害危険地域に指定しました。そのため住民に、内陸寄りの高台へと移住してもらう運動を進めることに。会のスローガンは「海の見える高台に街を造る」としました。
対象地域の住民を訪ねると、移転嘆願書への署名が、1カ月ほどで約1400人分集まります。そして市と福島県、国に提出したのです。
地域再興への熱意は、立谷さんを更なる行動へと駆り立てました。8月の夜に、震災犠牲者を悼む、灯籠(とうろう)流しを企画したのです。
津波は家々だけではなく、地元民の暮らしに欠かせない、先祖代々の墓をも押し流しました。初盆に合わせ、海へと還った命のため、せめて弔う場がほしい――。散髪ボランティアを通じ、住民たちの切ない思いに触れたことが、発案のきっかけでした。
市内にある寺院の住職、そして東部再起の会メンバーらとともに、実行委員会を立ち上げた立谷さん。地元企業に100万円を超える開催費の寄付を依頼しつつ、紙製の灯籠を、一戸一戸配って歩きました。
会場は、津波で大きな被害を受けた、地元の松川浦漁港を選択しました。当日、ペットボトルにキャンドルを入れて火をともし、会場までの導線上に並べると、1千人を超える人々が「光の道」を歩いたのです。
うつむいて祈りを捧げたり、水面(みなも)をたゆたう灯籠を、目を潤ませながら眺めたり。参加者たちはめいめいに、亡き人を思う時間を持ちました。
立谷さんの手記に見える言葉からは、興奮が伝わってきます。「供養ができたことに、皆さんの努力が報われたことに、感無量の思いです」。灯籠流しは以後、住民のやるせなさを癒やす場として、地域に定着していくことになります。
こうして少しずつ、しかし確実に、相馬の未来が開け始めました。
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