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津波を逃れた「普通の人」の10年 少年が見せた「寂しそうな表情」
年月を経ても、決して消せない後悔
もうすぐ東日本大震災の発生日、3月11日を迎えます。福島県相馬市に住む男性は、津波によって故郷を一度失いました。「それでも、海の匂いがする街に帰りたい」。そんな思いから、漁師町をよみがえらせようと、住民のリーダーとして力を尽くしてきました。これまであまり語られなかった、当地に住む「普通の人」の10年間。生々しい避難生活の様子と、その中で抱いた「後悔」について、男性の手記を基に振り返ります。(withnews編集部・神戸郁人)
「時が過ぎるのは早いものですね。震災が私の人生を変えて、十年目の歳月が流れます」。立谷幸一さん(67)の手記「凡人の十年間」は、そんな書き出しで始まります。
相馬市原釜地区生まれ。青のりの養殖で知られる松川浦にほど近い、港町で育ちました。45年前、潮の香りが漂う沿岸部に、自宅兼理容店を開業。妻の定香(さだか)さん、長男の陽一郎さんと3人で切り盛りしてきました。
「グラグラグラ」。2011年3月11日午後2時46分、巨大な揺れが店舗を襲いました。仕事中だった立谷さんたちは、思わず地面に伏せます。ふと周囲を眺めると、棚に並んだ化粧品や、壁にかけたドライヤーが振り落とされていました。
建物の損壊状況を確認するため、外に出ると、衝撃的な光景が目に入ります。母屋の北側屋根の瓦が全て落下し、直下に停めてある自動車のフロントガラスを突き破っていたのです。
「何か、とてつもないことが起こるかもしれない」。店にいたお客さんたちに帰ってもらうと、8キロほど内陸寄りに建つ、定香さんの実家への避難を決めました。
陽一郎さんは、街中の薬局で働く妻の様子を確かめるため、別行動を取ることに。歯医者勤めの長女・綾子さんとは、電話すらつながりません。立谷さんの心はざわつくばかりです。
「母さん(定香さん)の実家に向かいます」。綾子さんに、メールでそう報告しました。
立谷さん夫妻は、自動車に乗ろうとしたとき、一人の少年の姿を認めます。自宅前に住む中学生でした。
「おんちゃん(おじさん)ら一時避難すんだ。あんちゃん(お兄ちゃん)も学校まで車に乗せていくから、やべぇ(行こう)」
そう声を掛けましたが、少年は「じいちゃんとばあちゃんに『大丈夫だから行くな』と言われた」。こうなっては、無理に連れて行くわけにもいきません。やむなく、その場を後にします。でも、彼が見せた寂しそうな表情が、脳裏に焼き付きました。
家族全員が合流できたのは、午後4時過ぎのことです。テレビの電源を入れると、東北地方の沿岸部を津波が襲った、というニュースが流れてきます。しかし、相馬の被害について伝える情報は、一切入ってきません。
「原釜には、地震が来ても津波は来ない」。地元には、そんな伝承が残っていました。俺たちの家は、きっと大丈夫さーー。祈るような気持ちで過ごす中、日付が変わる頃になって、市内に住むいとこから電話が入ります。
「幸一っつぁんの家が津波に流された。隣近所は、まるで海だ」
いても立ってもいられず、立谷さんは夜が明けるや、自宅へと車を走らせました。
海岸に連なる国道6号は、地面が所々盛り上がり、丘に漁船が流れついています。やっと家に程近い産業道路にたどりついても、がれきと化した家々が前方を塞ぎ、先に進めません。
そこで、見晴らしのいい丘の上の高台から、遠景を望むことにしました。目に入ったのは、ほぼ全ての建物が津波にさらわれ、湖のようになった故郷の姿。海から約200メートルの場所にあった立谷さんの自宅も、こつぜんと消えていました。
「街が、ない。昨日まで、静かに仕事をして、暮らしていた街が」
途端に切なくなり、涙があふれてきます。目の前に広がる光景を、現実のものとして認めるのは困難でした。
ほどなくして、原釜地区から約50キロ離れた、福島第一原子力発電所が爆発。放射線の被曝(ひばく)を避けるため、家族と市外の友人宅を転々とします。その合間にも相馬を毎日訪れ、安否が分からない親戚を捜し続けました。
そして1カ月ほど経った頃、知人から市内の空き家を紹介されます。地元に戻った立谷さんたちは、厳しい現実を知りました。
「486人」。後に相馬市が発表した、津波による犠牲者数です。その中には、行方不明だった親戚や、理容店の常連客が含まれていました。更に地域の避難所を回るうち、あの男子中学生一家も命を落としたとわかったのです。
「あのとき、なぜ無理やりにでも連れて行かなかったのか」。悔いに満ちた言葉が、手記につづられています。立谷さんは、この体験を経て、地域再生への道のりを歩むことになるのでした。
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