連載
#46 「見た目問題」どう向き合う?
アルビノは治すべき存在?「良い見た目」強要する社会に抱いた違和感
容姿は磨かなければいけないものなの?
自らの外見にまつわるコンプレックスは、「社会」によってつくられたのではないか――。生まれつき肌や髪の色素が薄い、アルビノでライターの雁屋優さんは最近、そう考えています。きっかけは、特徴的な容姿により就職などで苦労する「見た目問題」の当事者と、「ブス」について発信し続ける作家が参加した、トークイベントを観(み)たことです。「どんな顔で生きたいか、全て自分で決めて良い」。登壇者のやり取りから得た気づきについて、つづってもらいました。
私自身もアルビノに生まれ、見た目問題の当事者として人生を歩んできた。特徴的な容姿は、世間的な「美」の基準と衝突してしまうこともある。それだけに、「きれい」「かわいい」などの言葉がもたらす心理的な圧力というテーマがイベントで扱われた点は、興味深く感じられた。特に印象的だったのは、山崎さんの発言だ。
「かわいくなくても、美しくなくても良いよね、ともう一歩進む必要がある。美を磨く自由もあるし、磨く努力をしない自由も欲しい」
山崎さんには、ネット上で「ブス」という中傷を受けた経験がある。外見差別にまつわる著書を世に出すなど、見た目のコンプレックスについて、深く思考してきた人物だ。だからこそ、この一言を聞き、私ははっとした。「努力は良いもので、しなければならない」と思いこんでいたことに気づいたからだ。
最近、「かわいさ」「美しさ」に一つの正解などなく、そのあり方は多様である、という考え方が広がりつつある。やせていなくてもかわいい、背が高くなくても美しい……。そのような考え方の中に、見た目問題の症状も数えられる世界になれば、生きづらさは減るのではないか。私はそう考えていた。
しかし「かわいさ」「美しさ」の幅が広がることは、本当の意味での処方箋(せん)にはならない。「かわいく、美しくなるための努力をしなければいけない」というプレッシャーは消えないからだ。その点で言えば、イベントのタイトルにある、見た目問題と「ブス」は地続きだと言える。
かわいく、美しくあることが要求される職業においては、その努力をしないとなれば、よい評価は得られないだろう。
しかし山崎さんは、文章を書くことを生業(なりわい)とする小説家であるにもかかわらず、かつて顔を評価された。このように、本来かわいさや美しさが要求されるべきでない領域にまで、それらの要素が持ち込まれる場合があることも事実なのだ。
見た目問題の当事者たちからも、接客業のアルバイトで「お客さんの前に出るから」と断られたという話を聞くことがある。こういった扱いは不当だと思う。見た目に対してではなく、本人の働きぶりにお金が支払われているはずなのに。
繰り返すけれど、容姿を磨くことが、職務上の査定につながる状況自体を否定したいわけではない。外見のウェイトが必ずしも高くない仕事については、顔ではなく、その職業に必要な技能こそが、正当に評価されるべきだ。
イベントのタイトルについて言及したが、正直、ブスという言葉は目にしたくはなかった。私も言われたことがあるからだ。
しかし、「議論をするためにブスという言葉を使う必要がある」という山崎さんの言葉には、納得がいく。社会から「こうあるべき」と抑圧され続けているという意味で、ブスと見た目問題の生きづらさには共通するところがあると感じた。
そうした事情を踏まえ、山崎さんの言葉を咀嚼(そしゃく)し、考えた。たとえば、自分より勉強が不得意な人を、「努力が足りない」と見下すようなところが、私にもなかったか。「人間は努力しなければならない、そうでなければ正当に扱われない」。私自身、そんな価値観を、誰かに押しつけていたかもしれない。
ところで、円形脱毛症の吉村さやかさんは、ウィッグをしない生活を選択している。アルビノの神原由佳さんも、アルビノの見た目を隠さずに暮らしている。
私は、誰にでも「容姿をどうするか自分で決める自由」があると考えてきた。一例を挙げれば、アザのある人が、アザを隠すカバーメイクをすることも、しないことも、本人の自由だと思うのだ。
かつてメイクを「義務」と捉えていた、という神原さんの発言は、このことを象徴しているように感じる。
「あるとき、たまたま自分に合うコスメを見つけました。すると、メイクが楽しくなった。義務としてのメイクが『自分のためのメイク』と意味づけが変わりました。この経験もあって、自分が納得しているところに『きれいさ』があるのかなと考えています」
社会の側が円形脱毛症の当事者に「スキンヘッドではいけない」と思わせたり、まぶたの形に劣等感を持つ人に「一重まぶたは二重にしなくてはならない」と考えさせたりするのはいけないだろう。でも、自らウィッグをすることや、まぶたを二重にする整形手術を選ぶことは、何も悪くない。
本当に大切なのは、どのような外見で生きるのか、社会に強要されるのではなく、自分で決めるということなのだ。
これと似たものに、見た目の症状を「治すべき」というプレッシャーがある。
「見た目問題」の症状には、治療によって、治るものもある。かといって、単にそうすれば良い、という話でもない。命にかかわるような状態なら、治療一択かもしれない。しかし外見について言えば、そもそも治すか治さないかの選択肢があるはずだ。
私は、アルビノの症状の一つ・弱視に悩んでいる。「視力がほしい」「治したい」と思い続けてきたが、いざ医療や医学の側から「治療の対象」として見られると、もやっとしてしまう。私は健康ではないとみなされている、と考えてしまうからだ。
アルビノは遺伝子疾患なので、「ふつう」と異なる身体であることは事実だ。でも、私の状態を「悪いもの」「治すべきもの」と判断されるのは、釈然としない。この気持ちは、どこへ持っていけば良いのだろうか。
アルビノである自分を受け入れられていると言い切れないし、私は今後も視力が低いことに悩むだろう。それでも、他人から「悪いもの」「治すべきもの」と判断されることには納得しきれない。そして、その気持ちは持ち続けていても良いのだと思う。
努力することは素晴らしい。外見上の美しさであれ、勉学であれ、スポーツであれ、何かに対して腕を磨く努力ができることは称賛されるべきだ。一方で、努力はしたい人がすれば良いとも思うし、仮にしなかったとしても、その人の尊厳は損なわれない。
「かわいくあるべき」「美しくあるべき」と、努力を人に強制する社会こそが生きづらさを生み出しているのだと、今回のトークイベントを通して気づくことができた。
そして、他でもない私自身の中にも、他人に努力を求めようとする姿勢がある、と知るきっかけにもなった。「自分も差別に加担しているかもしれない」という自覚を持ち続けながら生きていきたい。
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