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#6 帰れない村

村の日々は、もう思い出せない 避難生活続く103歳のおばあちゃん

避難生活を送る三浦ミンさん。寝室には思い出の写真が飾られている=2019年12月23日午後、福島市、小玉重隆撮影
避難生活を送る三浦ミンさん。寝室には思い出の写真が飾られている=2019年12月23日午後、福島市、小玉重隆撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)
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70年以上過ごした集落

おばあちゃんは、もう覚えていない。

70年以上過ごした旧津島村・赤宇木集落の暮らしを。田畑を開墾し、必死に子どもを育てた日々を。
 
旧津島村の最高齢103歳の三浦ミンさん。

長男と一緒に避難生活を送る、福島市の民家の介護用のベッドで横たわりながら、時間をかけて記憶をたどる。

「忘れたあ、もう忘れちゃった」

避難先の介護用ベッドで眠る三浦ミンさん=2019年12月23日午後、福島市、小玉重隆撮影
避難先の介護用ベッドで眠る三浦ミンさん=2019年12月23日午後、福島市、小玉重隆撮影

貧しくても、楽しかった

2年前(2018年)に取材した時には、もう少し覚えていた。大好きなカップラーメンを食べながら、昔の話をしてくれた。

福島県川俣町で生まれ、旧満州に渡った。敗戦直前に帰国し、農業の夫と結婚。赤宇木集落の開拓団に参加した。

森林を切りひらき、田畑を作ってアワや芋を育てた。暮らしは貧しかった。それでも必死に5人の子どもを育て上げた。

「子どもを育てるのが楽しかった。可愛いでしょ、子どもは」

一方、つらいこともあった。

「いつだったかな、村の人に『三浦さんのところは米が食えないから、人間じゃない』って子どもの前で悪口を言われた。悔しくて、悲しくて、何日も泣いたよ。そんなこと言っちゃいけないよね、米が食えないから『人間じゃない』なんて……」

旧津島村の記憶があった頃の三浦ミンさん=2018年1月、福島市、三浦英之撮影
旧津島村の記憶があった頃の三浦ミンさん=2018年1月、福島市、三浦英之撮影

放射能が来るまでは……

そんな喜びも悔しさも、今はもう思い出せない。

記憶の手がかりを探りたくて、旧津島村の自宅を訪ねた。集落から遠く外れた一軒家。台所にはミンさんが愛用していた調理器具が残され、寝室のベッドの脇には欧米人の女の子の人形が置かれていた。

ミンさんの自宅の寝室に置かれている女の子の人形=2018年2月、福島県浪江町赤宇木集落、三浦英之撮影
ミンさんの自宅の寝室に置かれている女の子の人形=2018年2月、福島県浪江町赤宇木集落、三浦英之撮影

「人形、好きだったんですか?」
 
介護ベッドに横たわるミンさんに聞くと、「思い出せない」と柔らかく笑った。
 
最後にぽつり、こう言い残した。
 
「(私の人生は)良かったよ。放射能が来るまでは……良かったよ」

台所に残された、ミンさんが使っていた調理道具=2018年2月、福島県浪江町・赤宇木集落、三浦英之撮影
台所に残された、ミンさんが使っていた調理道具=2018年2月、福島県浪江町・赤宇木集落、三浦英之撮影
 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者

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