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「子なし夫婦はまともじゃないの?」令和も続く「生産性」という呪い

平成最後に起きた「炎上」が示す「社会の主流」から弾かれる不安

令和の時代も続く「生産性」という「呪いの言葉」、背景にあるものは? ※写真はイメージです
令和の時代も続く「生産性」という「呪いの言葉」、背景にあるものは? ※写真はイメージです

目次

平成最後の年、世の中を騒がせたのが現職の国会議員による「LGBT」と「生産性」を結びつけた主張でした。ネットをはじめ、多くの人の反発を招いた背景には、「社会の主流」を押しつける「世間」への違和感がありました。「見捨てられる」ことの不安への煽(あお)りと、「劣った存在」があることで保とうとする自尊心。令和の時代も続く「生産性」という「呪いの言葉」の背景を読み解きます。(評論家、著述家・真鍋厚)

「子どもを作らない、つまり生産性がないのです」

2018年(平成30年)7月にある雑誌に国会議員が炎上騒動の発端となる論考を寄稿しました。

そこには「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」などと書かれており、ネットを中心に怒りの声が湧き起こりました。

LGBTの当事者団体だけでなく、難病患者や障害者を支援する団体、政治家、芸能人などからも続々と批判が殺到。海外メディアにも報じられる事態に発展しました。

問題となったのは自由民主党の衆議院議員である杉田水脈(みお)が『新潮45』8月号に寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」というタイトルの3ページほどの論文でした。LGBTの「生きづらさ」は「制度」によるものではなく、「両親」との関係によるものであり、行政が動くのは筋違いではないかということと、メディアがLGBTを肯定的に報道することによって、「様々な性的指向も認めよ」といった多様性の暴走が起こりかねない懸念を訴えたものでした。

騒動の拡大を受けて杉田は、国会内の記者団の取材に対し、「さまざまな誤解や論争を招いてしまい、非常に心苦しく思っている。不快に感じたり、傷ついたりした人がいることを大変重く受け止めている。『生産性』という言葉は、本当に不適切だった」などと応じました。

そう、「生産性」は少なくない人々の神経を逆なでする恐るべき「呪いの言葉」だったのです。

渋谷区で成立した同性パートナーシップ条例を祝う会で掲げられた「THANK YOU SHIBUYA」と書いた紙=2015年3月31日、渋谷区、山口明夏撮影
渋谷区で成立した同性パートナーシップ条例を祝う会で掲げられた「THANK YOU SHIBUYA」と書いた紙=2015年3月31日、渋谷区、山口明夏撮影 出典: 朝日新聞

日本社会の古層にある「子なし夫婦=異常」

当時、筆者がとりわけ違和感を覚えたのは、「生産性」という言葉の原義を逸脱した使用法でした。

生産性とは、ざっくり言えば、あるモノを作るに当たり、生産諸要素がどれだけ効果的に使われたかということであり、それを割合で示したものが生産性です(日本生産性本部/生産性の定義より)。生産諸要素とは、機械設備やエネルギー、労働力などのことです。

例えば「労働生産性」は、「労働投入量1単位当たりの産出量・産出額」のことをいい、労働者1人当たり、または労働1時間当たりでどれだけ成果を生み出したかを指すものです。「労働生産性が向上する」ということは、同じ労働量でより多くの生産物を作り出したか、より少ない労働量でこれまでと同じ量の生産物を作り出したことを意味します(同上)。

近年問題視されているのは、世界の先進国における日本の労働生産性の低さです。これは業務の効率化の遅れや前時代的な制度や慣習などが原因とされ、特に長時間労働の文化は少子化に拍車を掛けているとさえいわれています。

そのような縁もゆかりもない概念を「子どもを作らない」=「生産性がない」に結び付けたのです。もちろん以前から「生産性」という言葉を個人の能力や業績に当てはめる風潮が現れ始めており、従来「仕事ができない社員」と表現していたものを「生産性が低い社員」などと評するといった、緩慢ではあるものの非常に強固な変化が生じつつありました。

しかし実のところ、この半ば暴力的な飛躍は、日本社会の古層から発しているのです。「子どもを作らない」ことは「異常」だとする言説が日常的に存在するからこそ、「子なし夫婦」は「まともな夫婦」ではないという暗黙の了解が深く根付いているからこそ、広義の「子どもを作らないカップル」への差別意識が醸成されるのです。

これはLGBTだけではなく、DINKs(ダブルインカム・ノー・キッズ=共働きで子どもを持たないライフスタイル)も含まれています。

多様な性を象徴する虹色の旗を手にパレードを歩く人たち=2019年10月13日、大阪市北区
多様な性を象徴する虹色の旗を手にパレードを歩く人たち=2019年10月13日、大阪市北区 出典: 朝日新聞

子どもがいる夫婦の下位に序列化

戦後の日本の占領政策に関わり、有名な『菊と刀 日本文化の型』を著した文化人類学者のルース・ベネディクトは、「日本の親たちが子供を必要とするのは、たんに情緒的に満足を得るためばかりではなく、もし家の血統を絶やすようなことになれば、彼らは人生の失敗者となるからである」と、この古層に潜む抜き差しならない階層意識を明快に述べています。

<子供をもたぬ妻の家庭内の地位はきわめて不安定なものであって、たとえ離縁されないとしても、さきざき姑となって、息子の結婚について発言権をもち、嫁に対して権力を揮う日の到来することを楽しみにして待つわけにはいかない。彼女の夫は、家系を絶やさぬために、男の子を養子に貰うであろうが、それでもなお彼女は、日本人の観念に従えば、敗者である。>
『菊と刀 日本文化の型』長谷川松治訳、講談社学術文庫

かつての日本では、子どもを作らないこと、子どもがいないことは「欠損」であり、「半端もの」を意味することが世の中に広く共有されていました。子どもを産めない女性は「石女」(うまずめ)とも呼ばれ、公的な場から排除されたりもしました。

ルース・ベネディクトが日本の家庭生活の根幹になっているとした「性別と世代の区別と長子相続権とに立脚した階層制度」(前掲書)がそのような差別的処遇の遠因となったのです。

これは「イエの継承」に関する影響力が小さくなった後も、出生に関与しないことは、社会的な責任を果たしていないという定型句として延命しました。2019年、大阪のシステムソフトウェア会社のTwitterアカウントが、「いつまでも独身の人は信用しない」「既婚でも子どもがいるかどうかで信用度は異なる」と投稿して炎上した例がまさにその表れです。

ここにも「世間」という「見えざる法」に準拠した「まとも」さについての差異化が図られています。これは、現在も姿形を変えて命脈を保っている前時代的な観念のいわば残りかすです。

筆者の田舎では昔、よくこんな物言いを聞きました。「あそこの夫婦は子どもがいないから」「あの子どものいない夫婦ね」……そこには、身体上の理由や個人の選択とは無関係に、不憫(ふびん)と蔑視のニュアンスが含意されていました。

そもそもなぜ、ただの夫婦と呼べないのか? しかし先の「失敗者」「敗者」という分析にすべて語り尽くされています。子どもがいないこと自体がすでにマイナスであって、子どもがいる夫婦の下位に序列化しているのです。これが「生産性」という言葉の内側に隠された階層意識の正体なのです。

マッチングアプリのノウハウをいかして作ったオンラインの結婚相談所の広告=2020年2月28日、東京都港区、関口佳代子撮影
マッチングアプリのノウハウをいかして作ったオンラインの結婚相談所の広告=2020年2月28日、東京都港区、関口佳代子撮影 出典: 朝日新聞

「社会の主流」にいることを植え付ける「新しい世間」

自らを「世間」がとなえるヒエラルキーに順応させ、安定的なポジションを築こうとする振る舞いは、多くの場合、劣等感の産物に過ぎません。

特に「世間」の枠内から振り落とされまいと、自らに自制と忍耐を強いている者ほど、あたかもその義務を履行していないと思われる他者を、劣った存在と捉え、時にネットなどで攻撃を加えることで自尊心を守るのです。

これはくだんの杉田論文の結語にある「常識」や「普通」という言葉に置き換えればその機能は明瞭です。

政治家が不用意にお墨付きを与えることによって、独り歩きしている「生産性」という「呪いの言葉」は、容易に「まとも」さの尺度として効力を増していきます。単に子どもの有無といったものだけではありません。

政界や産業界がこぞって持ち上げる「生産性」の内実とは、イノベーションができない経営層へのプレッシャーとしてのしかかるよりも、なぜか各人の仕事のパフォーマンスの良し悪しへと還元され、それに伴う社会的地位や市場価値といった比較を執拗(しつよう)に促し、「社会の主流」にいることの安心感と優越性を植え付ける「新しい世間」です。

そして、病気や失業、離婚などを契機に「社会の主流」から弾かれる「見捨てられ不安」を煽(あお)ります。社会から不要の烙印(らくいん)を押さられることの恐怖です。

誰もが「勝馬に乗る」ことに敏感になり、乗り遅れまいと神経を使うようになっています。その「勝馬」なるものは誰かから刷り込まれた「世間での見栄えや恥の意識」といった、惰性で受け継がれた外見上のイメージでしかなかったりするのですが、それぐらいしか信頼に足る幸福度のバロメーターがないのだともいえます。

生活保護の相談窓口=2020年5月14日、佐賀市役所、平塚学撮影
生活保護の相談窓口=2020年5月14日、佐賀市役所、平塚学撮影

「他者との比較で得られる幸福」のもろさ

経済学者のロバート・H・フランクは、「幸福度」のバランスを説明するために「地位財」と「非地位財」という考え方を提唱しました(『ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益』若林茂樹訳、日本経済新聞社)。

地位財とは、社会的地位、家や車、所得や資産など物質的なもの、数値化できるものが多く、「他者と比較することで得られる幸福」であり、非地位財は、健康や愛情、自由、自主性、良質な環境といった「他者との比較なしで得られる幸福」を指します。前者が相対的な幸福、後者が絶対的な幸福といえます。

「仕事」「結婚」「子ども」等々……これらの「世間」と称されるもののステレオタイプに従った〝成果物〟を掲げて、これが「普通の人生だ」「常識的な生き方である」と自分に言い聞かせたところで、幸福になれるかどうかはまったく別の話であり、そもそも外部の評価や誰かと比べなくてはならない限り絶対的なものではありません。

「生産性」という言葉に対する激烈な反発と憤りは、そこに「世間」という「見えざる法」の欺瞞(ぎまん)と暴力を、直感的に嗅ぎ取っているからにほかなりません。

わたしたちが世の中を徘徊(はいかい)するそれらの妖怪の惑わされないためには、観念の残りかすを栄養にしているかもしれない自らの精神、そのあまりに不自由で悲惨な境遇を直視してみないわけにはいかないでしょう。

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