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連載

#11 平成炎上史

「不審者」扱いされる父親、前兆となった「あいさつしないルール」

公園で子ども連れの父親が通報される……「他者の不審者化」の背景にあるものは? ※画像はイメージです
公園で子ども連れの父親が通報される……「他者の不審者化」の背景にあるものは? ※画像はイメージです

目次

令和の時代に入って「ネット炎上」の主役に躍り出たのが「子どもと一緒にいる父親が〝不審者〟として通報される案件」だ。実は、平成の時代、マンションの住民同士の「あいさつ禁止」という前兆となる事件が起こっていた。他人を自分たちに不安をもたらす危険な存在としてしか捉えられない「他者の不審者化」と、直接的な関わりを避けて行政に指導や懲罰を丸投げする「コミュニケーションの権力化」。立場が変われば自分が排除される側になるのにもかかわらず、多様性の尊重が叫ばれる時代にあって境遇の異なる人々への想像力が育まれにくくなっている。(評論家、著述家・真鍋厚)

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「通報したのはママさんグループだったみたい」

2019年8月、エッセイスト犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人(つるぎ・みきと)さんが、新幹線内で娘(2歳)をあやしていたところ、乗客に誘拐を疑われて警察に通報されたことが大きな話題となった。

劔さんがTwitterなどでその一部始終をつぶやいたことがきっかけで、「育児する男性」に対する社会の見方についての議論が巻き起こり、「プチ炎上」も引き起こした。

実はこの事件の2カ月前に、元プロ野球選手の落合博満氏の長男である声優の落合福嗣(ふくし)さんが、同じく娘(3歳)と公園で遊んでいた際に、警察官から職務質問を受けたことがあるとTwitter上でつぶやいていた。

福嗣さんのツイートは、異例の反響を呼んでネットメディアを中心に取り上げられた。本人が以下のツイートで説明した通り、通報したのは公園にいた母親たちだった。



そもそもこのエピソードは、「公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん」に関するネットメディアの記事への引用リツイートとして書き起こされたもので、平成から令和へと悪化の一途をたどっている「不審者の時代」を象徴する投稿といえた。



「あいさつをしないように決めて下さい」

「不審者の時代」のターニングポイントとしてあげられるのが、2016年(平成28年)に電子掲示板やソーシャルメディアで炎上を巻き起こした「あいさつ禁止のマンション」だだ。

議論の始まりは、2016年11月4日付の神戸新聞の読者投稿欄だった。マンション内であいさつを「しない」ことがルール化されることについて、管理組合理事が「世の中変わったな、と理解に苦しんでいます」という困惑気味の意見が掲載された。

この投稿がTwitter上で拡散(記事の画像に「これが最先端の日本の近所付き合いです」と付言されたツイートだけでも2.6万リツイートもされた)されると、ネットメディアが取り上げ、テレビ番組が後を追った。

投書の内容は以下の通りだ。

住んでるマンションの管理組合理事をやってるんですが、先日の住民総会で、小学生の親御さんから提案がありました。「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように決めて下さい」。子どもにはどの人がマンションの人かどうかは判断できない。教育上困ります、とも。すると、年配の方から「あいさつをしてもあいさつが返ってこないので気分が悪かった。お互いにやめましょう」と、意見が一致してしまいました。
マンション内であいさつを「しない」ことがルール化されたことを伝える投稿は話題を呼んだ ※画像はイメージです
マンション内であいさつを「しない」ことがルール化されたことを伝える投稿は話題を呼んだ ※画像はイメージです 出典:https://pixta.jp/

「正しいか」より「リスクがあるか」

このような「知らない人」=不審者と決め付ける感受性について、社会学者のジョック・ヤングは、その原因には不安があるとして「予測不可能性とリスクの結びつき」による行動様式とみなした。

近代社会になって人々の移動が頻繁になると、コミュニティーで生活の大半を過ごしたり、職場を中心にコミュニティーがつくられたりすることがなくなってくる。そのため知人や隣人、路上でたまたま出会う人についての情報は、かつてより大幅に減少することになる。人々はもはや、まわりにいる自分と同じ市民について、ほとんど何も知らなくなった。それに加えて、多様化した社会に生活しているため、人々は他者の行動を予測することがほとんどできなくなっている。この予測不可能性とリスクが結びつくことにより、人々は従来よりも他者にたいして慎重になり、そこから保険統計的な態度が生みだされることになる。
ジョック・ヤング『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男・村澤真保呂・伊藤泰郎・岸政彦訳(洛北出版)

ヤングは、それが正しいのか正しくないのか、よりも自分が何らかのトラブルに巻き込まれるリスクを考えてしまうようになっている現実があるとし「保険統計主義にとって重要なのは、正義ではなく、被害の最小化である」と指摘している(前掲書)。

このようなスタンスは、親近者や部外者を問わずすべての人間に、その人間が自分にとって危険であるかどうかという「犯罪リスク」を与えてしまう。

「誰も彼もが犯罪者の可能性を帯びる」ようになるのである。刑法犯の認知件数が戦後最少を更新(2018年、警察庁調べ)しても、「体感治安」が悪化しているように感じられるのはそのような事情が絡んでいる。

刑法犯の認知件数は下がっているのに「体感治安」が悪化しているように感じられる背景には「犯罪リスク」への反応があるという ※画像はイメージです
刑法犯の認知件数は下がっているのに「体感治安」が悪化しているように感じられる背景には「犯罪リスク」への反応があるという ※画像はイメージです 出典:https://pixta.jp/

直接、話さず「行政へのクレーム対応」で処理

そもそも、相手が本当に不審者か否かを知りたければ、面倒だと思わず直接やりとりをすればよいだけの話だ。

たとえば、落合氏のケースであれば、数分程度の会話の中で仕事が一般的な会社員とは勤務時間の違う「声優」であることや、他の父親とは事情が違うことなどがすぐに分かったはずである。

しかし、「ママさんグループ」は、自分たちのテリトリーに入ってきた見慣れない親子を、すぐさま「犯罪リスク」のカテゴリーに区分するだけにとどまらず、声を掛けるなどの「関わりそのものを拒絶」し、かつ警察への通報という「行政へのクレーム対応」で処理してしまった。

「公園内に不審者らしい者がいるので、尋問して必要とあらば排除せよ」と、自分たちは傍観者を決め込んだ上でコミュニケーションそのものを〝丸投げ〟したわけだ。しかも、この一連の行為は〝ごく自然に〟行われたように思える。

疑わしい「彼ら」と会話すること、「彼ら」から視認されること自体が「リスク」となるからだ(=潜在的な犯罪者への監視)。その「リスクを代行するのが行政(公権力)」であり、市民として当然の義務を果たしたというわけである(=潜在的な犯罪者への制裁)。

疑わしい「彼ら」から視認されること自体が「リスク」と考えられ、「関わりそのものを拒絶」されている ※画像はイメージです
疑わしい「彼ら」から視認されること自体が「リスク」と考えられ、「関わりそのものを拒絶」されている ※画像はイメージです 出典:https://pixta.jp/

「恐怖と治安を快楽として消費」

これが他人を自分たちに不安をもたらす危険な存在としか捉えられない「他者の不審者化」と、直接的な関わりを避けて行政に指導や懲罰を期待する「コミュニケーションの権力化」の身もふたもないからくりの正体だ。

恐るべきことに、そのような振る舞いの奥底には「恐怖と治安を快楽として消費しつつある」心理が隠されている。社会学者の芹沢一也氏は、それを「ホラーハウス社会」と呼んで警鐘を鳴らした。

治安管理は子どもから大人まで、全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメントだ。それは、街の安全というスローガンのもとに形作られる、「新しいコミュニティー」のあり方にほかならない。治安への意思が住民たちを結束させ、しかもそこで行われる活動が日々の「生きがい」という、何にも替え難い快楽を与えているのだ。
芹沢一也『ホラーハウス社会』(講談社+α新書)

「新しいコミュニティー」は、よそ者が入り込む隙などはなく、「高度な排除」の下に成り立っている。

何か不穏な動きがあればすぐに警察を呼び出し、犯罪の恐れを通じて「仲間感」を生み出そうとする。日常的に不審者の影におびえることによって、辛うじて「内部の結束」が保たれるいびつな構図である。

しかも、そこには「快適さ」を乱すノイジーな連中は、「罪を犯さなくとも犯罪者と同様の脅威として現れる」。つまり、新幹線内で泣き叫ぶ子どもをなだめられない親(とりわけ父親が!)は、その時点で「犯罪的」とされるのだ。

「自分たち」も不自由を強いられるのに

先の新幹線内の事件では、通報した者が本当に父親を誘拐犯と疑って110番したのか、単に嫌がらせで110番したのかで意見が分かれていたが、どちらも警察の介入を要請した時点で、父親の存在を「犯罪的」とみなされたことに変わりはない。実際に刑法上の犯罪行為が実行されているかどうかは事の本質ではないのである。

とはいえ、これは結局のところ、自らに呪いをかけることになる。不自由を強いられる対象には「自分たち」も含まれているからだ。今、住んでいる場所を離れて、別の町に行こうものなら、誰もが「侵入者の立場」となり得る――。

自分の自由を守ろうとすると他人の自由を制限してしまう。逆に、他人の自由を守ろうとすると自分の自由が制限される。自由と安心に関する現代的なジレンマについて、社会学者のジグムント・バウマンはこう看破した。

自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い
ジグムント・バウマン著、奥井智之訳『コミュニティ 安全と自由の戦場』(ちくま学芸文庫)

わたしたちはこのジレンマをうまく解決に導くことができるし、その責任を担っている人間の一人であるということにもっと敏感であらねばならないだろう。

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