連載
#9 平成炎上史
テレビCM「炎上させて満足」してませんか? 昭和の亡霊との戦い方
平成という時代、女性差別の内容があるCMに向けられる厳しい目は、炎上という形で問題の一端を浮き上がらせてきた。同時に、炎上が大きくなればなるほど、問題の本質が見えにくくなる心配も生まれている。企業や経営者が表面上の体裁だけ取りつくろう中、消費者はオンラインでの抗議で満足してしまってはいないだろうか。「ネット上のコントロールしやすい現実」で終わらず、「目の前にある動かし難い現実」と向き合う姿勢が求められている。(評論家、著述家・真鍋厚)
平成という時代は、元号が変わったとはいえ、昭和に育まれた固定観念や、ロールモデルを引きずり続け、そのために不幸と苦悩を背負わざるを得ない時代でもあった。つまり「昭和の延長戦」という面であり、「昭和の亡霊」との闘いを余儀なくされたのだ。
様々な商品やサービスをお客である消費者に訴えかけることを狙って、あの手この手でアプローチしようと試みるテレビCM・ウェブCMは、良くも悪くも「昭和の亡霊」のようないびつな時代の空気を伝える〝体現者〟であった。
それが賛否入り交じる形で象徴的に示されたのが、2019年(平成31年)の新春初炎上となった西武・そごうのCMだった。
「女性活躍」という言葉が注目される日本だが、実際は女性というだけで何かを強いたり、無視されたり、減点されたりする――そんな状況を放置している〝今〟をシュールな寸劇に仕上げたものである。
しかし、女性の顔に勢いよくパイを投げ付けて、ホイップクリーム塗れにしてしまう演出の仕方に、「気分が悪い」「悪意を感じる」など不快感を表明する人々が続出。果ては「性的強要」の隠喩ではないかと指摘する珍説までが飛び交った。
西武・そごうのCMは、どちらかといえば世相を風刺したものだが、女性に対する差別のようなジェンダーをめぐるCMの炎上事例は枚挙に暇がない。
2015年(平成27年)にルミネがウェブで公開した「働く女性たちを応援するスペシャルムービー」は、主人公の女性が上司の男性に容姿をからかわれる内容が問題視された。
朝の出勤時に女性Aと上司が会社の入り口辺りで一緒になった際、上司がAの顔を見て「なんか顔、疲れてんなぁ。残業?」と言い、Aが「いやぁ、普通に寝ましたけど」と返答。それを聞いた上司は「寝てそれ? ハッハハハ!」と高笑い。エントランスに入ると、別の女性Bが登場。上司が「おお、髪切った?」と声をかけると、「ああ、これ巻いただけですって」と返される。上司は「やっぱかわいいなぁ、あの子」。Aが「そうですね、いい子だし」と同調すると、上司は「大丈夫だよ。Aとは需要が違うんだから」と気休めを言って立ち去る。
そして、次のカットで以下の説明文が示される。
【需要】じゅ・よう 求められること。この場合、「単なる仕事仲間」であり、「職場の華」ではないという揶揄(やゆ)。
「最近サボってた?」という反省のアナウンスとともに、「変わりたい?変わらなきゃ」というメッセージが画面一杯に表示される。
2017年(平成29年)にユニ・チャームがウェブで公開したおむつブランド「ムーニー」のCMは、母親が一人で子育てしなければならない「ワンオペ育児」を肯定しているとみなされて批判を浴びた。
子育てを「長いトンネル」に例える歌をバックに、初めての子育てに慌てふためく母親の日常を描いたもので、前半は泣きやまない子どもに悩まされ、自分の美容について保湿などのスキンケアの時間や食事の時間がまともに取れず、「途方に暮れる様子」が生々しいタッチで次々と映し出される。
後半は、母親と子どもが目を見つめ合う様子を挟んで、子どもが母親の手を握る感動的なシーンに切り替わり、「その時間が、いつか宝物になる」というキャッチコピーで締めくくられる構成になっている。
前者は、「職場の華」という昭和的ステレオタイプの女性像=「男性に都合の良い『需要』に応えるロールモデル」が押し付けられていることへの反発が主にあり、後者は、「ワンオペ育児」という「現代の子育ての悲劇」を感動的な個人史として〝美化〟していることへの疑念があることが指摘された。
これらのCMがネットで炎上してしまった背景にあるのは、固定観念に基づく時代錯誤なロールモデルを多かれ少なかれ「実人生」で強要されているにもかかわらず、まるで念押しのようにテレビやウェブ上での「物語の様式を借りた広告」で再度そのイメージが拡散されることへの憤りだ。
何もかもが〈自分のせい=自己責任〉とされる「選択と責任の個人化」という時代状況においては、1つのCMが以前から蓄積されてきた社会への不満に対する「追い打ち」に思えたり、「自分が嘲笑され、辱められている」ように感じられたりしてもまったく不思議ではない。
これはすでにわたしたちが被害妄想を抱きやすい心理状態にあるということでもある。また、企業には必ず消費者からのクレームを受け付ける窓口があるため、行動を形にしやすいということも見逃せない。感情に促されるままに企業のソーシャルメディアアカウントや、メール、投稿フォームなどに直接抗議しやすい点――指先を動かせばものの数分で完結する「敷居の低さ」――も重要な要素といえるだろう。
今年6月にBBCが報じているが、イギリスの広告基準協議会(ASA)は、「一部のステレオタイプに基づく表現が、『人の可能性を狭める』一端を担いかねない」として、「具体的な害」のある「性別にもとづく有害なステレオタイプ(世間的固定概念)」を使った広告を禁止する新規制をスタートさせた。
ASAの決定に伴い、「イギリス国内の広告では今後、男性がくつろぐ間に女性が掃除していたり、男性がおむつ替えに失敗したりするなどのシナリオは使えなくなる」と伝えている。
現状のところ日本でもこのような規制が必要かどうかは議論の余地があるが、消費者の立場から生まれるクレームだけを前提にしてしまうことには負の側面があることも見逃してはならない。
CMの炎上に背景には企業への苦情申し入れに対する「敷居の低さ」があるが、仮に、動画の削除や謝罪の引き出しというバッシングそのものが目的化してしまうと、社会全体から見た場合に好ましくない副作用を生み出す可能性がある。
現在のようなジェンダー・ギャップ(世界経済フォーラムによれば、世界149カ国のうち日本は110位)を作り出している社会構造の片隅で、特定の消費者に向けて制作された「映像作品」に攻撃が集中する一方で、そもそもの問題の根源にある社会構造自体への本質的な批判は素通りされやすくなるのだ。
CMなどの「表層のバッシング」による放映中止や動画の削除、果ては謝罪文の掲載へと追い込むことが、ネット上で簡単にできてしまう便利さとレスポンスの速さから、場合によっては日常的な違和感やうっぷんに対する留飲を下げてしまい、社会全体でジェンダー問題への関心を育てる流れを邪魔しないか、危惧される。
オンライン上での抗議活動については、逆に「それ以上の関わり」を引き出しにくくなる面があることが、様々な事例から明らかになっている。
臨床心理学者のシェリー・タークルは、オンラインの社会運動に関わった学生たちが、現実の行動を起こすまでに至らなかった失敗談を挙げてこう述べている。「オンラインなら近道をたどれるという、新しい幻想をいだかせる。だが、それは幻想にすぎない」と。
「(学生の)エリザベスはこの経験から学んだことを、こうまとめる。『ウェブサイトに行く、送金する――そこまでで、その会話に参加しなくちゃという気持ちは満足するんです。オンラインに行くことでそのムーブメントへの連帯意識を示す。そしてそのあとは、はい、おしまい』」(シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ SNSとFTF』日暮雅通訳、青土社)。
CMの炎上に見られるオンラインの抗議行動には、これと似たようなメカニズムが作動するのだ。「指先でできる抗議活動」に対する小さな達成感=報酬が得られることで、かえって長い時間をかけた実践が伴う特定の人物への支援やサポートなど、フェース・トゥ・フェースの話し合いなどが不可欠となる社会運動への発展は遠ざかるのだ。
政治も娯楽も貴重な可処分時間を奪う対象でしかない現代においては、誰もがシェアやいいね!といったオンラインの意思表明で済ませるのは当然の帰結といえるが、そこには最小限の労力で「不快なものを視界から一掃したい」とする欲求があるように思われる。
だが、最も厄介なのは、「表層のバッシング」が社会的に認知されることによって、社会の上層にいて決定権を持つ人々、企業でいうところのマネジメント層の「時代の空気」への「表面上の迎合」が巧妙化することである。
本心ではまったく共感はしてはいないが、「たたかれるリスク」という部分だけ学習して、組織や宣伝手法の「見栄えさえ整えれば」問題ないと考える。そうすると、例えば「企業内における男女の賃金や処遇の格差」などを残存させたまま、「女性が活躍できる企業」「女性に寄り添った新商品」などの外面にだけ注力するようになる。
つまり、時流に合わせた「口当たりのよい美辞麗句やイメージ」でコーティングしとけば、現実の世の中や自社の職場を「変えなくても問題はない」とする、周到に構築された「金環食的な社会」が強化されることが懸念される。
先日、労働関係の街頭相談会である相談員から次のようの話を聞いた。
「本当に炎上させなければならないのは、『ネット上で可視化されないミクロな物語』だ」
職場では様々な女性が日々不利益を被っている。経営者団体や企業は、何ら解決していない「昭和の亡霊」の代表格である男女格差の問題が「大炎上」することこそを恐れているが、消費者の声に過ぎない「表層のバッシング」に終始している限りは痛くもかゆくもない。
炎上騒動が次々に出来する〝可燃性の時代〟とは、燃料になりやすい「個人」が燃焼による高揚を通じて、実は「目の前にある動かし難い現実」ではなく、「ネット上のコントロールしやすい現実」に向かいやすい。
その誘惑にあらがいつつ、いかに「昭和の亡霊」との闘いを推し進めるのか。わたしたちの出方が問われている。
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